「剣光」
pero
第四章 闇の章


 最初の土蜘蛛を屠ってから、もう殺気は感じなかった。
 敵が沈黙したとは考えにくい。当然隙は狙い続けているだろう。しかし殺気や振動、微かでも音を発するような相手ならば、対処のしようはいくらでもある。
 そう思って、楓は落ち着いた、確実な足取りで前に進んでいた。
 だが。
「な、しまっ!」
 狼狽した和也の声に、みるの絶叫が続いた。理性の片鱗も感じさせない、割れるような声量に、楓の思考が凍りつく。
 体は反射的に捻られていた。
 それは、歴戦の神剣士にも、にわかには信じ難い光景だった。
 今さっき倒した個体と、ほぼ同じくらいの大きさだろう。それくらいの土蜘蛛が、三体、二人をすっかり取り囲む形で控えている。
 ほぞを噛みながらも、せめて前線に立って二人を逃がそうと、楓は跳躍のために膝を沈める。
「楓さん! 後ろ!」
 振り返る愚は犯さなかった。そのまま飛び上がり、空中で体を捻る。
 一瞬前まで立っていた床が、巨大な影に呑み込まれていた。その形は見覚えのある、無数の節足。影の源となる本体は、もちろんどこにも、天井にも無いはずだった。
 影の表面にゆらりと、さざ波のような波紋が走る。次いでその頭部に当たる箇所から、濁った黄色に輝く目が浮かび上がった。
 楓が着地した時には、土蜘蛛は完全に影から身を引き抜いていた。
「最初に地中から襲ってきたのは、これを隠すためのフェイントやったっちゅうわけかい」
 呟く和也の声には、焦りと後悔の色が強い。見抜けなかった自分を責めているのだろうが、その気持ちは楓とて同じだった。
「和也」
「苦しいな。この状況でみる様を守りつつ逃げるのは、ちっと荷が勝ちすぎとる。大技を続けて打ちゃあ、切り抜けること自体は可能やと思うが」
 だがこの後の相手には、消耗した状態で挑むことになる。
 煮え切らない相棒の態度に、楓も動くことが出来なかった。その隙だけでも、土蜘蛛たちにとっては攻撃のチャンスだったろう。
 だが、彼らもまた、動かなかった。
 双方が固まり停滞した空気に、殺気の内圧だけが高まっていく。
「少しはやるかと思ったけど、やはりこの程度のつまらない連中だったってことかしらね」
 麻痺した時間を動かしたのは、そんなふうな女の声だった。
 声の主を探す楓の目が、三人を囲む四匹の土蜘蛛のうち一匹の背に留まる。
 黄金色の体毛の中から、白い顔が浮かび上がる。続いて、赤い服に包まれた高い背が生え出てくる。土蜘蛛たちと同じ転移術を用いたのだと、見当が付いた。
 ならば、それは人ではない。
 異形の妖獣の背に平然と立つ、緋色の学生服に身を包んだ長身短髪の麗人。冷たく不敵なその笑いは、なるほど確かに、人よりは魔性の姿と言えた。
「貴様がこの結界のっ!」
「そう、管理者といったところかしら」
 言って、女は目を細めて、楓を見下す。
「わざわざ巣をこしらえて待ち構えたわりには、張り合いの無い幕切れだったわね。まさかあっさりと隙を見せるとは思ってもみなかったわ」
 耳をなぶる侮蔑に、楓は唇をきつく噛む。反論できないのが、何より痛い。
「もう勝った気でいるんかい。そいつはちっとばかし気が早いんと違うか?」
 印を結んだ手をかざし、和也が低く言い放つ。が、女は動じた様子も見せなかった。
「大技を連発すれば、ね。それで? 空っぽになった貴方に、蜘蛛の餌になる以外に出来ることがあるのかしら?」
 この言葉に、和也もまた息を呑んで押し黙る――。
 いや。
 顔を伏せる一瞬、楓は確かに、和也から発せられた目配せを確認していた。
 絶体絶命の状態。
 打つ手があるとすれば、それは管理者が自ら出てきたこと。
 ならば。
「さっきの、どういうこと!」
 戦術への思索は、思いがけない主の叫びで打ち破られていた。
「待ち構えたって、どういうことなの!」
 見上げるみるの顔は、まだ恐怖と不安に彩られていたが、それを置いてひどく真剣な――怒りの予兆のような気配が漂っていた。
 女は腕を組み、そんな彼女の視線を斜に流す。
「そのままよ。日神子をおびき出すために仕組んだの。そこらの術者じゃ壊せないくらいに頑丈で、尚且つ日ノ宮が危機感を持つぐらいの威力の結界を張る。そうすれば、貴方が出てくるのは分かっていたのでね」
「そんなことのために、こんなことを」
 呟くみるの声は、深く重い。
 だが今、感情的に溺れて良いことは何も無い。こちらから攻撃に出るにしろ、先んじて逃げるにしろ、高まりすぎた感情は体を鈍らせる。
 楓は主人を落ち着かせようと、口を開きかけた。
「日神子とは、それだけの意味を持つ存在だ。味方にも、敵にも」
 割り込んだ男の声に、振り返る。
 土蜘蛛の囲いを割って、一人の男が姿を現していた。
 黒皮のジャケットの左の袖は、不自然にぶら下がっていた。
 顔の半分を走る炎のような紋様にも、目を引かれた。
 しかし楓がまず注視したのは、その男が腰から下げた刀だった。
 黒塗りの鞘に納められたその長刀は、何故か楓に、極めて禍々しい印象を与えた。
 あたかもその鞘の内に、無数の怨霊を飼っているかのような。
「人にとっては守護神、我らにとっては仇敵。それがお前の立場だ」
「そして貴方には、格好の餌というわけね」
 笑いながら、女が言う。
「別に待っててもらっても構わなかったのよ。ちゃんとこいつらは私が料理して、貴方のところへ運んであげたんだけど」
「死肉は不味い。自分の口で喰う気にはなれん」
 まるで普通の料理について語るように、外道の行為について語る者たち。
 楓は改めて、自分の中に冷たい敵意が燃え上がるのを感じた。
「やはり貴様ら、黄泉の裔か」
「それ以外の何だと思ったの?」
 嘲笑をいよいよ深めながら、女は言った。
「一応紹介しておくわ。彼は村雨。今回私が雇った用心棒。もしかして残飯処理係だったのかもしれないけど」
 この仲間からの侮辱にも、村雨は顔色一つ変えなかった。その昏い目は、真っ直ぐにみるに向けられている。
「そして日神子様、殺す前に名乗っておくわ。私は五馬。黄泉の裔の一員にして、土蜘蛛族の貴種の血を引く者。本日は憎くて憎くて堪らない貴方様に、引導を渡しに参上致しました」
 言って、五馬はふざけた調子で頭を下げた。
 歯軋りしそうになって、しかし自身の中の冷静な声に、楓の頭は冷えていく。
 状況は極めて不利だった。ただでさえ土蜘蛛四体に囲まれている上に、二人目の黄泉の裔まで現れるとは。
 和也に目を向ければ、やはりそこには迷いの色が浮かんでいた。
 例の命綱は使えないのか、それともその隙が無いのか。
 進退窮まったように見えた。
「五馬、こいつらを除けろ。邪魔だ」
 その言葉を誰よりも信じられなかったのは、あるいは楓だったのだろうか。
 驚いて視線を振り回せば、蜘蛛の背で五馬が憮然としている。
「それは、こっちが有利な状況をわざわざ放棄するって事以上に、何か意味のあることなのかしら?」
「お前は本気で残飯処理係を雇ったのか? 守を排除するのが俺の役目だったはずだが?」
 抑揚の無い村雨の声に、五馬は不満げに顔をしかめながらも、気圧されたように手を振った。
 主人を背に乗せたもの以外の三匹の蜘蛛が、溶けるように影に沈みこんでいく。
 晴れ上がるようにして広がった空間を、村雨は悠然と歩き出した。
 唯一つ、袖の外に覗いている右腕を、腰の刀にかける。
 呆気に取られて見ていたのは、そこまでだった。
「和也!」
 叫んで、駆け出す。
 剣は振りかぶらず、胸下で構えて、握りは少し離す。
 まずは中段から、敵の出方を探りに行く。
 黄泉の裔との戦いは、本質的には格闘でも剣術勝負でもない。援護があるとはいえ、手の内の分からない――あの不吉な刀を持った相手に、いきなり打ちかかっていくのは、無謀に思えた。
 果たして、予期とは別のところで、楓はその慎重さに救われた。
 蛙の捕食、毒貝の銛撃ち、あるいはノミの跳躍。
 例え話だけならば、恐ろしくもなんとも無い。
 だが実際に、それだけの瞬発力の斬撃となれば、話は全く別だ。
 村雨が足を止めた。
 右手一本でどうやって抜き打ちが放てたのか、楓には視認できる暇が無かった。
 刹那、地を抉った斬線に向けて、反射的に剣を合わせる。
 甲高い雄たけびと共に、鋼の塊がぶつかり合っていた。刀剣というよりは鈍器のそれに近い衝撃に、つま先が浮きかける。
 外見の通りに、伸ばされた刀は長大だった。楓はまだ、自分の間合いに入れていない。剣が届くまでは、あと二歩ほどの隔たり。
「オン キリキリ ソワカ!」
 虚空と阿弥陀、二仏の御名を合図に、背後で急速に神気が凝縮する気配が起こる。
 刀を押しやって一歩後退。反動に乗って、楓は地にしゃがむ。
 その背後から、沈む肩を焦がすようなタイミングで、気弾の群れが飛び出した。
 村雨の太刀が霞む。初めに外。次に内。重ねて振るわれた刃に、飛来した弾丸のほとんどが切り裂かれ、霧散する。
 その、内に振り切ったところに、飛び込んだ。
 左寄りに、地の底から掬い上げるような一刀。
 がら空きの体勢に打ち込まれたその一撃をかわしきれず、村雨は右腕を浅く刻まれる。一瞬、黄泉の裔の目が見開かれる。引かれる腕から赤い雫が散り、剣の腹に弾けた。
 さらに右へ。
 反撃に振るわれる攻撃を刃圏の死角へかわし、明白な弱点――相手の左半身へ喰い下がる。
 一打、二打と繰り出される牽制の太刀は、全て外から――こちらの左を狙わざるを得ないものだった。弾き、流したところで、一気に踏み込み。
 そこで、相手が大きく後ろに跳んだ。
 双方十歩は離れたところで、互いに動きが止まった。
 手に残ったのは、二度目の薄皮の手応え。
 会心の突きは頬を掠めるに留まった。紋様に薄く血化粧を加えられ、村雨の相貌は尚一層に恐ろしげなものになっている。
「何をやってるの? 口ほどにも無いのは一体どちらかしら?」
 侮蔑半分、苛立ち半分の五馬の罵声。どうやら仲間の戦いを高見の見物と決め込んでいたらしい。
 油断無く敵の動きに気を払いながらも、楓は内心で安堵していた。
 確かに人以上に速く、そして強い。
 居合いの打てない下げ太刀で、居合い並みの切り上げが来るとは思っていなかった。
 が、まだ虫の、生き物の速さだ。光や稲妻の速さでないのなら、対応できないものではない。
 そしてなにより、隻腕。これが最大の弱点だ。体の半分が丸々死角になってしまっている上に、攻撃の方向もひどく限定されている。それさえ頭に入れておけば、強打を受けることは無い。
「いい動きだ」
 ぼそりと、独り言のように黄泉の裔が呟いた。
「自在な太刀捌き、流水の如き構えの移し、まさに一流と称するに相応しい」
「何が言いたい」
 突然の賞賛に、楓は戸惑いを隠せない。戦いの最中に敵から技量を称えられるのは、もちろん初めてのことだ。
 余裕の表れか、それとも何かの策略か。
「久しぶりに見た。その剣術」
 無表情に語る村雨の目に、一瞬、影がよぎったような気がした。
 次の瞬間には、構えを取ることも無く、その体が消失じみた勢いで沈んでいた。
 コンマの踏み込みで圏に入った右手から、銀の弧が上弦を描いて迸る。
 反応は頭では出来なかった。理に従えば愚策でしかない動き。
「貫っ!」
 怒気と共に、剣を降す。
 床石を貫いた剣の刃に、大太刀の刃が喰らい付く。
 衝撃を大地に流し、その反動を吸い上げて。
「烈閃!」
 刃に伴われ、青い光がマグマのように噴き上がった。
 先の土蜘蛛の如く、盛大に床石を散らしながら、直剣が大きく跳ね上がる。
 宙に泳いだ太刀の先を、抜ける。
 駆け出した直後には、もう手は腰にまで引き戻されている。脇構えから、再び切り上げの姿勢へ。
 今度は向こうも立ち止まっていなかった。左を背面にかばう様に下がり、横へずれながら、村雨は斜めに刃を降らせる。
 打ち払う。すぐに二の太刀が来る。
 弾けば返り、止めれば巻き込み、いなせば逆手に飛び跳ねる。
 粘る。
 だが距離を詰められれば、長物の利は減じる。それどころか重さを打撃に乗せられず、組み打ちは難しくなる。
 力の鈍った斬撃を防ぎながら、楓は機会の度、半歩ずつ距離を縮める。それにつれて、徐々に太刀筋の広さも狭まりだす。
「せぃっゃあ!」
 跳ね上げたところで、体当たりの勢いで、胴を薙ぎに行く。
 村雨は手を振り被り――。
 左手に衝撃。痛みと捻りで剣が下がり、姿勢が右に、外に向けて崩れる。
 痛んだ瞬間には、柄で握りを打たれたのだと分かった。
 ――っ、ただでは!
 踏み出しかけた右の足を、更に外向きに蹴った。
 左肩の骨から、相手の腹に可能な限りの推力を叩き込む。
 肩の痛覚が一瞬振り切れ、麻痺した。くぐもった呼吸が耳の至近で漏れる。
 続けて、そのまま刺突。
 かわされ、両者の間に空隙が広がる。
 双方よろめきながらも、牽制の剣を繰り出しつつ、後退。
 荒い呼吸を継ぎながら、楓は痛みの抜けるのを待ち切れず、すぐさま突きかかる。不適な距離で、村雨は粘る。
 さらに数合。それは、およそ六打目のことだっただろうか。
 上に逃がされ、再び天頂から落ちてきた太刀を受けた楓は、慄然とした。
 軽すぎる。
 それまでの攻撃に比べて、木刀で打ったのかと思うような重みの無さ。
 だがそれは、噛み合った瞬間に鉄に化ける。
 剣の受けを反動に変えて、村雨は横に跳ねた。予期せぬ力に、楓の姿勢が崩れる。
 背面の左を軸足に、半円を描いて村雨の体が逃げる。翻る右の肩には、太刀の鎌首がもたげられていた。
 短く、地を揺らす踏み込みと共に、逆胴が飛ぶ。
 衝撃に、今度こそ楓の体が浮き上がった。こらえきれずに、後ろに転ぶ。
 追い打ちに太刀が振り上げられる。
「――マンダ ボダナン インダラヤ ソワカ!」
 横から撃たれた雷撃に、攻撃は中止された。
 空を裂いた稲妻は、白刃に切り払われ、掻き消えた。その間に楓は立ち上がり、退がりながら呼吸を整える。
 村雨は、稲妻を切り払った姿勢のまま、動きを止めていた。
「そうか」
 夢から醒めたといわんばかりの、薄ら寒くなるほど素直な声だった。
「神子守だったな、お前たちは」
「何を、当たり前のことを言っている」
 楓には、自分の声が震えているように聞こえた。村雨から発散されていた陰鬱な殺気が消え果ている。代わりに吹き上がり始めているのは――。
「そうだったな。俺の目的は日神子を喰うこと。この剣により、その力を我が物とすること」
 ゆらりと、太刀の刃文に蛍火の輝きが宿る。幾度も見慣れたその緑の光は。
「インダラヤ ソワカ」
 突き出された切っ先から、轟音と共に破魔の雷槌が撃ち放たれた。


「な、馬鹿な!」
 警戒を忘れて、和也は叫んでいた。
 戦いはほぼ互角だったが、動きの切れにおいて、楓が若干勝っているように見えた。
 だからそこに援護の術を撃ちまくれば、今頃あの村雨は倒せていたかもしれなかったが、五馬への警戒を緩めるわけにもいかず、なかなか手を出しかねていた。何といっても、彼の背後には無力な主人がいた。幸い五馬も高見の見物で、こちらの方を無視してくれていたのだが。
「姐さん!」「楓さん!」
 さすがに、楓はその一撃ではやられなかった。瞬間的に光を強めた剣で、村雨と同じように雷を切り払っていた。
 ……いや、違う。
 楓に切り払われた稲妻は、周囲の空間に飛び散るように、拡散しながら消えていく。しかし先の村雨の一刀は……。
 それに何より、和也を驚かせたのは。
「その術、わいのやんか!」
 帝釈天の真言を用いた雷術自体は、高等な技ながら、ある程度の力を持つ術者なら誰でも使いこなすことが出来る。だが今村雨の放ったものは、威力といい神力の波長といい、まさに和也の操る術そのものだった。
 激昂する和也に対し、村雨は流し目を向け、やはりただ、淡々と口を開く。
「お前もさすがに神子守だな。見事な術だ」
「それがあなたの切り札? 面白いわね、喰わずに相手の力を吸い取れるって言うわけ?」
 こころなしか、耳にする五馬の声が弾んでいる。味方の力に、精神的な優位を取り戻し始めたのだろうか。
「これは貪狼(とんろう)の太刀。日の国に伝わる、三振りの亡国の魔剣が一つ。かつて鈴鹿の鬼王が秘蔵した宝剣とも、足利に滅ぼされし楠一門の怨念が宿った剣とも伝えられるが、確かな謂われは知らん。その力は見ての通りだ」
 得意げでも無いその説明は、和也の焦りを嫌でも煽り立てる。真偽はともかく、刀の力については、恐らく嘘は言っていない。村雨がいかなる戦いを経てきたかは知らないが、さすがに、昨日今日に黄泉の裔に加わったというわけではないだろう。楓との立ち回りを見れば、それは一目瞭然だ。
 ならば、これまでに刀が吸い取った力は、どれほどの規模になるのか?
「和也君っ!」
 みるの悲痛な声に、背中が震える。
 援護しなければ不味い。だが。
「村雨、よければ陰陽師は私が引き受けようかしら?」
 和也の内心を見抜いたかのように、今更なタイミングで五馬が申し出る。楽しげな声は、鼠の尾を踏みつけた猫のそれだった。
 村雨が、蜘蛛の背の女に首を巡らせる。その返事よりも速く。
「ナウマク サンマンダ バザラダン カン!」
 轟っ、と吹き荒れた緑光の刃が、蜘蛛の四肢を微塵に分解していた。
 続いて四方に呪符を散らし、張り巡らせていた結界を固定。防壁を自立存続させる。
「みる様、ここから動かんといてや!」言い放って飛び出す。
 床に広がった残骸と体液の中に、五馬の姿はなかった。警戒をしないわけにはいかないが、だからといって手をこまねいていることも出来ない。
 符を取り出し、戦いを再開した二人に向かって投げ放つ。宙でその形を歪める紙片は、やがて次々に黒い鴉へと変じ――。
 和也は横様に転がった。
 羽ばたく式神鳥の一羽が、突然両断された。間を置かず、転がる和也のジャケットの裾が、鋭角に削り取られる。
「オン キリキリ ソワカ!」
 転がりながら撃つ気弾は、十分な練気を経てないため、数も大きさも乏しかった。それらの内の数発が、虚空に白煙を吐き出す。身を起こしつつ目を瞑り、和也は次の術を編む。
「オン サン ザン ザンサク ソワカ」
 開かれた目には、一面の空間に被さる影の格子が、はっきりと見えた。その中を通る一際大きな影も。
「そこや!」
 放つ気弾は、八歩ほど先の宙に弾ける。そこから、鏡の裏から出るようにして、長身の女がするりと姿を現した。
「転移と隠身を組み合わせて撹乱するっちゅうのは、いい作戦やけどな。そないな大掛かりな力を使うとったら、わいには逆に目立ってしゃあないで」
「確かに、転移は余波が大きいものね。さすがにそれは通用しないか」
 微笑む五馬の手は、胸の前に構えられている。一見、徒手による拳法の構えのようにも見えるが、和也の目には、その指先からごく僅かに、細い光の線が延びているのが見えた。
「その糸が、あんさんの得物っちゅうわけかい」
「斬鋼糸。まあ今の私がこれだけではないっていうのは、貴方も分かっているでしょうけど」
 右手で刀印を作りながら、慎重に神力を呼び起こしていく。
 はったりではないだろう。彼女は転移や隠身に一々自分の神力を使ってはいない。消耗の大きいそれらの術を戦闘に多用することなど、黄泉の裔といえども難しいだろう。それが可能なのは、この場所が彼女の巣であるからに他ならない。
「では、貴方の力を見せて貰おうかしら?」
 笑いが一際、酷薄になる。それが合図だった。
 振り払うような腕の動きと、繰り上げるような指の動き。それらがいかなる作用で働くのか、和也には知る由も無い。
 左の後方から来る殺意に向けて、目もやらずに気弾を放つ。同時に、正面に向けて刀印を振り下ろす。
 斬光を前に、五馬は再び水に飛び込むようにして、空間の歪みに身を沈めた。だが、その動きは表の空間にも余波として波紋を散らす。今の和也の目は、皮膚は、それを捉えることが出来る。
「オン キリキリ ソワカ!」
 影の格子――空間に巡らされた別位相のハイウェイ。その中を流れる気配へ、先んじて攻撃を撃ち込む。光弾は空中で次々と破裂し、振動が空気を揺らした。
 通常の術攻撃では、別位相の相手に大したダメージを与えることはできない。しかし牽制には十分だ。攻撃を封じ、こちらに出ることも封じれば、相手は逃げ回るしかない。潜り続けで出られなくなったところに、空間ごと敵を破砕する術をぶつけるなり、わざと逃げ道を作って飛び出したところに集中砲火を浴びせるなりすれば、確実に仕留められる。それが、和也の狙いだった。
 こうなれば勝負は付いたも同然。簡単だ。そう――あれだけ余裕を見せた相手が、あっけなく落ちるには、あまりにも簡単すぎる。
 直感に突き動かされ、そのおぞましい気配が吹き上がるよりも早く、和也は足元を見ていた。
 巨大な八本足の影が、裏界の海の底から浮かんできていた。
 慌ててそこから駆け出せば、行く手にも。
 方向を転じれば、やはりその先にも。
 続けて地上に姿を現した三体の土蜘蛛が、頭部だけ覗かせる内から、顎を大きく開く。
 迎撃は間に合わない。防御は……このタイミングでは、完全に相手に流れを与えてしまいかねない。
「こなくそぉっ!」
 懐から取り出すのは、取って置きの呪符具の一つだ。こんなところで使うつもりはなかったのだが。
「急々如律令! この身の罪穢れ贖え!」
 指先から離されるのは、紙をくり抜いた人形(ひとかた)だった。幻覚と霊的同期を利用した撹乱・身代わりの術。狙い過たず、土蜘蛛の糸は三つが三つとも、人形目指して吐き出される。粘質の糸が眼前の空中で絡み合い、濁った飛沫が和也のジャケットに付着した。
「ナウマク サンマンダ ボダナン ベイシャラマンダヤ ソワカ!」
 気合と共に吐き出した神力は、いつものように即座に放たれることなく、熱の塊となって右手に集約する。一振りすれば、それは翡翠色に輝く槍となっていた。
「喰らいやぁ!」
 気合は十分。しかし突き出す手は力み過ぎ、姿勢は甚だ偏り――そんなことは関係なかった。陰陽師の右手から伸びた光の槍は、蛇のように宙でうねりながらその身を伸ばし、穂先を走らせる。輝く先端は正確に、最初の土蜘蛛の頭部を貫いた。そのまま貫通し、次の獲物へと身を躍らせる。
 近い順に次々と槍に砕かれ、土蜘蛛たちはその巨躯を影の底に沈めた。一振りで穂先を引き戻した和也は、その場で上を、空中を睨み上げる。
「想像以上ね。いちどきに三体を葬ることが出来るとまでは思わなかったわ」
 使い魔たちの主は、背丈三つ分くらい上の、何もないはずの虚空に、微動だにせず佇んでいた。まるで足元に、見えない足場があるかのように。
「潜りっこはお終いかいな」
「続きはダンスといきたいところね」
 言い終わる前に、和也の槍が輝線を描いて伸びていた。微細の糸を溶かして、穂先が煙を噴き上げる。
 五馬の姿は既にそこにない。今度は転移ではなかった。空中に巡らされた別の足場へと飛び移ったのだ。そのまま止まることなく、追いかける槍を尻目に、空気のクッションで弾みをつけるようにして、次々と跳躍を繰り返す。
 霊的視覚を強化したとはいえ、本来の動体視力までが強化されているわけではない。柔軟な体捌きで目まぐるしく位置を変える五馬に、和也の目は付いていけない。それどころか。
「遅い!」
 振られた指に連動して、網目状に刃線が降りかかる。
 慌てて引き戻した槍で薙ぎ払う間に。
「次!」
 横合い、地から吹き上がるようにして、糸が低く飛ぶ。槍一本では間に合わない。
「オン キリキリ ソワカ!」
 これで何度目になるのか、気弾の連射で迎撃。
 飛び散った糸が掠めたのか、風のような感触と共に、右の頬が裂けて血が噴き出す。
「この!」
 上方、視界の左端に向けて、気弾を散射。
 天井まで届いた光で爆発が起こり、粉塵と共に銀色の煌きが滝となって流れ落ちる。だが、やはり敵の姿は無かった。残像を求めれば、もう視界ぎりぎりの右端にまで移動している。
 肩がそろそろ重かった。このまま術を撃ちまくれば、遠からず消耗し尽してしまう。かといって、あの糸を一本でも受ければ、それで手足を失うことになるだろう。
 ならば。
「ナウマク サンマンダ ボダナン ベイシャラマンダヤ ソワカ、散りて刺され!」
 叫んで、伸ばすのでなく、投げた。
 天井近くまで達した槍は、その場で閃光を発する。爆散した欠片はそのまま矢じりとなって、蒸発煙で空中を埋め尽くした。
 短い悲鳴を発して、五馬が体を崩す。かなりの高さを落下して、床に叩きつけられる。
「ナウマク サンマ……」
「くっ!」
 苦悶を上げ、身を起こす女に向け、必殺の術を練る。タイミング的には、明らかにこちらが速い。
「バザラダン カン!」
「イシカ ホノリ!」
 光の刃が迸ったと同時、呪言に応えるように、突き出された五馬の手から黒く濁った瘴気が噴き上がった。瘴気はぶつかった刃を一瞬で侵食し、それに留まらず、音を立てて床を溶かしながら扇状に広がり始める。
「んなっ!」
 信じられない思いで、和也は背を向けて逃げ出した。幸い瘴気は足が遅いため、回避自体は余裕で出来る。
 黒い靄が晴れた後で、五馬はまだ床に膝を突いた姿勢でいた。彼女の前から、誰かが酸でも撒きながら通ったように、床が溶け爛れて波打っていた。上がった息を小刻みに吐きながら、五馬は血走った目で和也を睨んだ。
「まさか、奥の手まで使わされるとはね」
「なんなんや今のは、わいの術を消し飛ばすって」
 驚愕を隠せない和也の顔に自負を取り戻したのか、五馬は微かに笑った。
「毒よ、呪詛の念を練りこんだ妖毒。我ら土蜘蛛の毒については、貴方も知ってるのではなくて?」
 土蜘蛛の毒についてなど、よくは知らない。ただとても毒性が強いらしいということくらいしか知らなかったが。
「うっかりすると自分自身を溶かしてしまうから、あまり使いたくないのだけれどね」
 言って、ふらつきながらも五馬は立ち上がった。
 印を構えながらも、和也の口からは舌打ちが漏れていた。
 多少は消耗させたようだが、ここは彼女の巣だ。向こうは回復まで、さほど待つこともないはずだった。対してこちらは疲労が溜まり始めている。もとよりスタミナ勝負に持ち込まれれば、こちらが不利なのは分かりきってはいたのだが。
 加えて、今の利剣術を防いだ毒術の威力。不動呪が通用しないとなると、並みの術では貫くことが出来ないだろう。
 残る手は、例の命綱くらいか。しかし一度使えば、恐らくはそれで切れる。それで倒せなければ……。
 みたび、響いた主の悲鳴に、和也の思考は中断された。
 慌てて見れば、彼女自身は未だ結界に守られて、傷一つ負っていない。だが視界に映る、もう一人の守の姿は。
「あら、あっちは決着が着きそうね」
 なぶるような調子を取り戻した声も、和也の頭には届いていなかった。
「楓さん! 楓さん!」
「くそっ!」
 目の前の敵に警戒を残しながらも、和也は相棒のもとへ駆け出した。
 五馬は邪魔することなく、笑って彼を見送った。


 雷撃の後、村雨の戦い方は、全く別の形に様変わりした。
 常に十歩以上の距離を保ち、怒涛のごとく術による攻撃を浴びせ掛けてきた。
 向けられる太刀が緑に輝くたび、その刀身から光弾や光刃、そして稲妻が、次々と楓目掛けて放たれる。
 その全てを切り払い、弾き飛ばし、防ぎ続けているが、一向に反撃に転じることが出来ない。距離が開いた上に、ほとんど間断無く光術が降り注いでくる状況では、手の出しようが無いのが実情だった。
「おのれっ!」
 斬撃から放たれた光の刃を弾き飛ばして、楓は気勢を上げた。
 動かなければ、いずれ押し切られる。
 覚悟を決めると、剣を眼前に、力を振り絞った。
「天切る 地切る 悪しき祓へ」
 祝詞が紡がれていくのに伴い、楓の中を巡る精髄が、握る剣へと流れ込み始める。青い光は夜光虫の仄暗さから、清月の明瞭さへと急速に移り行く。
「祓い給へ 清め給へ!」
 剣の輝きが最高潮に達するのとほぼ同時に、突き出された太刀の切っ先から再び稲妻。それに合わせて。
「走破!」
 大振りの一太刀が、稲妻を打ち破る……だけではなかった。破られた稲妻は砕けながらそのまま逆流し、撃ち手の村雨へと襲い掛かる。
 無言で稲妻を払うその体に、風の勢いで肉薄した影から、袈裟切りの一撃が見舞われる。
 ほとんど紙一重のタイミングで回避した村雨の首もとに、一拍遅れて新しい傷口が芽吹く。
「まだっ!」
 畳み掛けるように振るわれる膝薙ぎ、切り上げ、首払い。
 どう贔屓目に見ても、相手の防御はぎりぎりだった。受ける手は遅く、こちらの気迫に押されるように、二歩三歩と後ろへ下がる。
 その姿に、楓は憐憫とも軽蔑ともつかない、妙な感情を覚えていた。
 遠隔攻撃に頼ったりするから、競り合いが弱くなる。先の立ち合いの鋭さは見る影も無い。
 相手の浅はかさにますます憤りを掻き立てられると同時に、何か物足りないような感じもしていた。
 それが、油断に繋がった。
「ケハヤ」
 ぼそりと、鉛のような呟きが黄泉の裔の口から漏れる。その言葉が何であるかに思い至るより速く、村雨の体が凄まじい回転を見せていた。
 先の立ち合いで見せた体捌きとは、まるで違う。捻りの狭く、より急激にして深い動きは、剣士のそれではなく。
 楓の意識が、完全に砕けた。
 主人の悲鳴が聞こえた気がしたが、それもよく分からなかった。
 高く空中に放り出される中で、予感していたことは一つだけ。
 体内の組織――いや、骨か。どこかに、決定的な痛打が入った。臓器のどこかが破れたか。運がよければ、あばらが折れただけで済んでいるのかもしれないが。
 受身を取ることさえも出来ず、背中から石の床に打ちつけられる。
 衝撃が背骨を揺さぶり、よじった体が、腹の痛みに更に痙攣した。
「神拳術だ。神力を体技に換える闘士も、喰ったことがあるのでな」
 その言葉を反芻する内、意識が脈絡を取り戻し始める。
 またしても、やられた。
 先の術による攻撃は、こちらを焦らせて飛び込ませるための挑発だった。あの雷撃以降の流れで、これまでに奪った力が術者の技だけだと、思い込まされたのだ。
 そんな油断の上に飛んできたのは、高速の後ろ回し蹴り。
「競り掛けられた時の遅れは本物だった。術を使い始めると、やはり勘が鈍る」
 内心を見透かしたような言葉に、舌を噛みたい気持ちになる。
 ならば、どのみち今の攻撃に賭けるしかなかったということだろう。それを妙な感傷でふいにしてしまうとは。
 歯を噛む。
 もっと冷徹で。
 もっと、速ければ。
「ではこれから、日神子の力を頂くとしよう。お前の始末は、その後でどうとでもなる」
 体が跳ねた。
 うつ伏せに転がると、やはり下腹が激しく痛んだが、動けなくなるほどではない。
 痛みを呑んで両手を突けば、起き上がること自体はすんなりと出来た。
 突き動かすのは使命感でも怒りでもなく――。
「やらせる、ものか」
 立ち上がってみれば、村雨はまだ一歩も動いていなかった。六歩ほどの隔たりの先で、太刀を担いでこちらを見ている。その目からは、やはり情動が読み取りにくい。
「もはや戦えないと思うが?」
「だま、れ」
 実際、この痛手でこれほどの強敵とやりあうのは難しい。だが、方策が全く無いというわけではない。いざとなれば、相討ちにでも持ち込めばいい。
 痛みの酷い脇腹、あばらを押さえながら、楓は結界に守られている主人を庇う形で、村雨の前に回りこむ。
「日神子様には、指一本触れさせんっ」
 返答は、再び振り下ろされた太刀の先だった。
 黒い影をまとった刃から放たれるのは、緑に輝く光弾ではなく、無数の漆黒の礫。回避できないと身構えた楓の体を、それらはあっけなく透過し。
「なっ!」
 凝固した楓に向け、村雨は気だるそうに口を開いた。
「影縫い。これでもはや抵抗は出来まい」
 無造作、無防備に歩き出す男に、楓は反応できなかった。どれほど手足に力を入れようとしても、運動が手足の腱に伝わらない。指一本すら動かせない。
 姐さんっ、と叫ぶ声が横合いから聞こえたが、視線すら返せなかった。
 完敗か。
 そんな諦めが、脳裏に去来する。
 村雨はそんな彼女の目の前まで近寄り。
 横を、通り過ぎる。
 それだけは、許せない、許されないことだった。
「ぅっああぁぁっ!」
 理性を置き去りにした体が、外聞もない咆哮を上げる。
 剣の光が伝染する。全身に行き渡った蒼光が、闇の針が結い止めている影を、崩した。
「あぁぁっ!」
 振り返りつつ、肘を反らす。落とした膝に、地の反動が駆け上る。
 村雨も、瞬間的に反応していたが。
「がっ!」
 鋼の音は鳴らなかった。代わりに、初めて黄泉の裔の口から、苦悶が漏れた。
 両手を振り切った楓は、ぶり返した痛みと、新たに開いた痛みに、よろける。
 相打ちだった。振り返る村雨の、右の脇に、剣先の三分の一が埋まるほどの、かなり深い一撃が入っていた。しかしこちらも、流そうとした相手の切っ先に、右の腿を裂かれていた。
 だが、与えたダメージは、こちらが大きい。
 追撃に移ろうとした楓の前から、村雨は右へ飛びすさる。
 距離を置いた相手に、激痛で散り散りになりそうな意識を抑え込みながら、楓は血に濡れる剣を構え直した。
「恐怖、か」
 村雨は既に、無感情な装いを戻していた。傷もあまり気にしたそぶりを見せず、構えも取らずに、太刀を下げたまま楓を見返す。
「束縛を脱したのは見事、と言いたいところだが」
「なん、だと」
 剣先が震える。脂汗が滲み出た背中が、まるで溶けて流れ始めているように思えた。
 その背中に、不意に、柔らかく染み渡るような力が流れ込んできた。
「悪しき祓へ 助け給へ」
 気遣わしげなその声に、驚いて振り向く。
「大丈夫か、姐さん?」
 相棒が符を構え、結界を張る仕草を見せながら、隣に駆け寄って来る。主人は後ろでしゃがみ、治癒の祈念を捧げていた。
「馬鹿な、日神子様を手薄にはっ」
「嫌! こんなになってまで戦ってくれてる二人をただ見てるだけなんて、もう出来ないよ!」
 遮るように叫んで、みるは祝詞を再開しようとする。それを、和也が押し留める。
「みる様、今はそれくらいで。今はまだ戦闘中ですけん」
 その言葉に、みるは固い動きで立ち上がる。考えるより先に、楓の口は動いていた。
「痛みはほとんど引きました。ありがとう御座います」
「え?」
「日神子様のおかげで、まだまだやれそうです」
 その言葉に、主人に微かな笑顔が灯った。
「押していたと思ったら、この様? つくづく人を失望させてくれるわね」
 そんな言葉と共に、村雨の傍らに、五馬が影から浮かび上がる。
 村雨は目も遣らなかった。
「見苦しいな」
「何?」「何ですって」
 向けられる当惑を他所に、黄泉の裔は低く続ける。
「恐怖を支えにして戦うということは、未だ覚悟が出来ていないということだ。そんな姿勢では、俺は殺せん」
「言うわね」
 喜色を浮かべるのは、無論五馬。
「出来ればもう少し説得力が欲しいけど。でも確かに、主人を見殺しにするような腑抜け相手に本気になるのも、難しいかしらね」
 顔色を変えたのは楓ばかりではない。和也からも、一瞬、空気を震わせるような殺気が発されたが。
「確かにな」
 答える声は、怒りも感じさせないほど低い。むしろ瞑想に沈むような、落ち着いているとさえ言えるものだった。
「わいらは守の役目を果たせへんかった。そのことについては、何を言われてもしゃあないわ」
 それは自分に向けられたものであり、同時に楓に向けられたものだったのだろう。
 役目を果たせなかった者への、静かな咎めの声。
 だが。
「けど、だからこそな」
 今度の日神子様には。
「このみる様には、尚更、指一本触れさせへんで」
 和也は楓を見て、笑った。
「姐さんかて分かってるはずや。クソッタレな覚悟なんかいらへん。わいらはあんたらと違うて人間や。怖かったり、悔しかったりするのは当たり前や。そして、そういった怖いもんも何も、全部バネに換えることが出来る」
 そうよ! と、同調する声。
 主人が前に、二人の間に、身を晒す。
「私は知ってる! 楓さんも和也君も、私を守るために、とっても頑張ってくれてるってこと」
 楓の目から見ても、いまや彼女が怒っているのは明白だった。
「怖がってるってことなら、私が誰よりも怖がってる! 自分か、自分の好きな人たちが死んじゃうかもしれないんだから、怖いのが当たり前だよ! でもっ」
 涙を溜めた目が、挑むように絞られる。
「私決めた! 怖がってばっかりの役立たずでも、私を必要として、支えてくれてる人がいるのなら、その人たちと一緒に頑張っていこうって! 怖がりながらでも頑張ろうって! だから二人を馬鹿にすることは、私が許さない!」
 涙声の告白を、楓は誇らしい気持ちで聞き終えた。
「申し訳ありませんでした、日神子様」
「え?」
 顔は向けない。敵を見るまま、目の端と唇だけで微笑を刻む。
「不肖、日向楓、これより真に私の全てを以ってして、日神子様をお守り致します」
 目の前が晴れ上がった。
 冷たく、しかし乾いていない、瑞々しい意気が体の奥から巡り始めている。
 今ならば、遅れはない。そう確信できた。
「下らない。本当に興醒めさせてくれるわね」
 五馬はそう吐き捨て、冷ややかな視線を返す。彼女の反応は、本当にそれだけだった。
 しかし、傍らの村雨は。
「面白いな」
 楓は初めて、この黄泉の裔の声に、感情らしきものの片鱗を見出した。
 吹き付けた冷気に、肌が粟立つ。
 口にする言葉通りの、陽気などではない。
「そのようなたわ言で、本当に力の差を覆せるとでも思っているのなら」
 先刻までの冷徹で機械的な雰囲気ではない。最初の立会いの時に見せた昏い殺気に、近いといえば近い。
「力が全てだ。努力はその一部。強くなければ意味など無い」
 仲間の異様な気配に感づいた五馬が、驚いたような視線を向ける。
「宣言しよう。俺はこの場で、是が非でも日神子を喰らう。そのために、神子守よ」
 村雨は太刀を持つ、ただ一つの手を差し上げる。
 目に、憎しみの炎を宿して。
「ここで死ね」
 ジュッ、と音を立てて、切っ先に付着していた血が蒸発した。
 続いて刀の刃文が、黒いオーロラのような、紫暗の光を吐き出し始める。
 途端。
「っ!? ぃぐっがぁぁああっ!」
 獣じみた絶叫が自分の口から出たものだと、楓は俄かには認められなかった。
 くず折れながら、激痛の根源へと目を落とす。
 切られた腿。
 その傷口が、黒い輝きに包まれていた。それだけでなく、傷の周りに黒い、文字のようなものが浮かび上がってきている。
 ――なにかの囁きが、耳元を掠める。
「楓さん!?  悪しき祓へ 助け給へ……」
 みるの、主人の祈念が聞こえる。だが、暖かい治癒の力は、全く痛みを和らげてくれない。
 微小で獰猛な小動物が群れを成し、体の内側から血管を、筋肉を、神経を、喰らい裂いていく。
 例えるならば、そんな痛み。
「あぐぅああ! ひぅっぎぃっ!」
 腿の内で稲妻が散る。
 侵食が、肉を内から痙攣させる。
 痛みの余り、涙が出た。
 ――キニバギャチキャカ……エソワカ
「姐さん! っこらまさか!」
「ほう、これのことまで知っているのか」
 無感情を装った、悪意に満ちた村雨の声。
 ――オン ……ニバギャチキャカネイエソワカ
「ダキニ! ダキニかいな!」
 和也の取り乱す声。
 ――オン ダキニバギャチキャカネイエソワカ……
「そう。ひとたび放たれれば必ずや敵の喉に喰らいつき、息絶えるまで苛み続けるという、必殺の呪殺術。その女はもう終わりだ」
 ――オン ダキニバギャチキャカネイエソワカ……
「いっがっうっ」
 激痛で、もはや口も動かせない。震える唇から、涎がこぼれる。
 うつ伏せになり、死に体で痙攣する。
「みる様! 八握剣を! あれで祓えを行えばしのげるはずや!」
 和也が叫ぶ。
 が。
「させると思う?」
 これまでに増して楽しげな、五馬の声。
 辛うじて顔を上げれば、二人の黄泉の裔の周囲に、次々と黒い、巨大な影が浮かび始めているのが見て取れた。
 涙に濡れた視界の中で、顔を覗かせた土蜘蛛の一匹と、視線が合う。
「この子たちは、私が呼べば幾らでも湧いて出てくるわ。陰陽師の貴方。貴方に力の使い過ぎでミイラになるまで、この子たちとダンスを踊って貰うっていうのも、楽しい趣向だと思わない? そこの女が痛みで狂い死ぬのと、どっちが早いかしら」
 万事休す。
 そんな言葉と共に、視界に闇が降り始める。
 ひみ、こ。
 みる、さま、だ、け、は。
「急々如律令! 篭目の結びよ、裏返れ!」
 意識を失う前に耳にしたのは、そんな和也の声だった。


(続く)


・ 貪狼の太刀
 筆者の創作。鈴鹿山の「大嶽丸と鈴鹿御前」伝説に登場する宝剣や、『太平記』の三本の魔剣の話などからでっちあげた。
・ イシカホノリ
 『津軽外三郡志』という偽古文書に現れるらしい、神の名。トンデモ小説『竜の棺』において、石神と解釈されている。土蜘蛛の呪文としては不適当極まりないが、良いのが思いつかなく、これにしてしまった。