「剣光」
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 第三章 地の章


 階段を下りた先には、冷え冷えとした空間が広がっていた。
 一面の床と壁はタイル調の白い石材で出来ており、蛍光灯に照らされて、新雪のように眩しく映えていた。
 右手に目をやれば、向かいの壁に、看板の設置も終わったばかりといった風情の、真新しいパン屋の店舗が開いていた。鉄道会社がメトロ全線に展開している軽食販売の店で、開通した暁には、この駅でも営業を行うつもりだったのだろう。よく磨かれたガラスのショーケースには棚も付いていて、品物を搬入すれば、すぐにでも営業を始められそうだった。
 その左隣の壁には、クロムの煌きも真新しい券売機。さらに回って左、正面には、無人の改札が口を開けて並んでいた。
 しかし、人の姿は無い。まだ開通していないから、当たり前といえば当たり前なのだが、さりとて工事関係者や鉄道関係者の姿も無く、さながら、生まれる前に廃墟となったゴーストタウンを思わせる。
 周囲を見回し、異常の無い事を確認して、楓は背後を振り返った。
「今のところ、ここには異常は見られません。和也、そっちは?」
 彼女の相棒は、不安げに辺りを見回す主人の隣で、壁に手を突いて何事か唱えていたが、おもむろに顔を上げると一つ頷いた。
「ん、ここはまだ普通や。けど、あっこから先がちっとヤバイ感じになっとるな」
 そう話す和也の指先は、まっすぐ改札に向けられている。和也ほど神気の感知に長けてはいない楓だが、それでも、この場に何か不穏な気配が漂っており、それがこの先から漏れてくるものであることだけは分かる。頷いて、主へと視線を巡らせる。
「日神子様、お聞きの通り、本当に危険なのはここから先のようです。やはりまず、私どもが先行して様子を探った方が堅実かと思われますが」
 主人――みるは、瞳を揺らしながらも、この楓の視線を正面から受け止めた。
「うん、でも、あんまり時間の余裕が無いって話だし、楓さんたちだけ危険に向かわせて、私だけ後ろに下がってるなんて、我慢できない」
 すかさず反論しようと、楓は口を開きかけた。それを和也が、横から制する。
「まあまあ。姐さんの言いたいことは分かるわ。けどみる様の言われる通り、時間はあんまない。術者の皆かて、長くは持たへんやろな。それにわいらだけじゃ、もしかしたらこの異界を祓うことは出来んかもしれへん。わいらのどっちかが離れてみる様の守りが手薄になるのも、望ましゅうないんと違うか?」
 この正論に、楓は沈黙するしかなかった。
 事件の発生は二日前の昼過ぎだった。都内に建設中の地下鉄の新駅工事現場で、突如として異界化結界が出現した。当然、巻き込まれたのは神力や異能とは関係の無い一般人だったため、その厳密な計測はなされていない。しかし少なくとも、発生場所は地下の現場であり、規模はまだそれほど大きいものではなかったらしい。
 発生から一時間後、連絡を受けた官府の異能者が現場に到着、監視が開始された。その時、担当者は報告よりも実際の結界の圏が広がっており、駅下層のホーム全体が結界に呑まれていることを知った。
 発生から六時間後には、結界が上層に向けて、ごく緩やかにではあるが侵食を続けていることが、誰の目にも明らかになった。
 そして今、二日経った時点でも、外に向かっての拡大は続いている。現在は官府から状況を引き継いだ日ノ宮より、選り抜きの術者たちが出動、地上から鎮護の結界を張ることで異界の侵食を抑えている。しかし、和也の見立てでは、抑えられるのは半日程度が限界だという。中の異界がどうなっているのかが不明な以上、確かに、あまり悠長に構えていられる時間は無かった。
「仮にこれ以上異界が広がらなかったとしてもや、もしまた中から化け物が飛び出してきたら、とんでもないことになる。どっちみち、あんまりのんびりは出来へん」
 この言葉に、楓は厳粛な表情で頷いた。
「黄泉軍勢(よもついくさ)と、土蜘蛛(つちぐも)だったな」
 それらは、楓にも覚えのある敵だった。
 異界化直後、工事現場に出現した魔物により、何人か死人が出ていた。目撃証言によれば、ゾンビのような人型の群れと、巨大な化け蜘蛛。結界を飛び出して襲ってきた一群は既に倒されているものの、中に残りが控えている可能性は高い。
「土蜘蛛はちっと厄介かもしれへんけど、わいらにとってはそないな強敵やない。けど」
「ああ、分かっている」
 言いかける和也の声も、答える楓の声も、緊張に高まり、切れるような鋭さを帯びている。
 知性がさほど高くもなく、神力も低い魔物たちに、このような結界を作れるとは思えなかった。
 加えて、その脅威。
 裏の祭主たる日神子直々の出動が要請される事態となると、それだけで由々しきものだ。文字通り身一つの日神子は、当然ながらそう易々と、簡単な仕事を請けられる身ではない。怪異による被害は多いとはいえ、それらのほとんどは、在野の異能者か、官府か、あるいは日ノ宮が適切と判断した術者に任される。
 今回も、最初は当然、そのような処置がなされた。
 にわかに集められた五人の術者が地下の入り口をくぐったのが、ちょうど一日前。急場に集められた人材とはいえ、皆、腕は確かだったという。
 その後の調査で、結界の大よその強度及び性質が明らかにされ、日ノ宮は急遽、その日予定されていた日神子による祈願を中止し、現場への派遣を決定した。
「この中のどこかに、結界を作った奴がいるはずや。一人とは限らんかもしれんが」
「黄泉軍勢を操るという時点で、敵は確実に黄泉の裔だな。恐らくは結界も、そいつの力を増大させるような性質を持っているものと見て、間違いはあるまい」
 間違いない、と、苦い顔で和也が答える。
「なお厄介なことやけど、この結界はわいらがどんなに頑張ろうと、外から壊せるようなもんやない。アホみたいな頑丈さと復元力を持っとる。けど、この手のヤツは必ず中に核、発生源を敷いて、そこから結界を維持しとるもんや。それを見つければ何とか出来るはずや」
「それを、私がやるんだよね」
 そう口にするみるは、引きつりながらも、固い瞳で和也を見つめている。そんな彼女の様子に、楓は筋違いを承知ながら、申し訳ない気持ちを覚えた。
 通達を受けてからここに至るまで、彼女は極端に口数が少なかった。殊に、死者が出ているという事実を聞いてから、しきりと手を組んだりうつむいたりと、落ち着かない様子を見せていた。
 日神子を継いでまだ一月余りとはいえ、その間に彼女も仕事に赴かなかったわけではない。滞って濁った地脈の浄化、騒ぎ始めた荒御魂の鎮魂、天災除けの祈願など、既に何度か務めを果たしている。しかしはっきりと敵が待ち構えていることが分かっている領域に、進んで足を踏み入れるのは、まだ数えるほどもなかった。
 だが一たび決定されれば、嫌も応もない。災いを鎮め、平穏を保つことこそが、日ノ宮と日神子の使命。楓も、自身の職務の誇りが、何に由来するかは心得ている。日神子を守るということは、ひいてはこの国を、そこに暮らす人々を守るということに他ならない。
 和也もまた、そのことは十分心得ているはずだった。動じることなく、みるの視線を受け止め、大きく頷く。
「そや。みる様の祓いなら、大概の禍も不浄も、一発で吹っ飛ばせるはずや。わいらには無理でも、みる様にならそれが出来る。逆にわいらは、わいらに出来ることを精一杯やる。難しく考えんても、皆が自分の役目を果たせば、絶対無事に切り抜けられます」
 そう言ってから、楓に視線を切り替える。
「わいらが気ぃつけなあかんのは、この結界を作った奴。必ずどっかから見てるはずやで」
 必要な警告だったとはいえ、その言葉はみるを余計に怯えさせたようだった。青ざめた顔で周囲にせわしなく視線を走らせる彼女は、なだめに回る和也の言葉も、ろくに聞こえていないようだ。もとは影の世界と縁が薄かったという話の通り、その様子は無力な子供と変わらなかった。
 実際、戦いになれば、彼女に出来ることはない。先代と違い、彼女は自身の神力を細かく操る技には通じていない。援護すら期待は出来ないだろう。
 だが、と楓は思う。守るということは、もともとこういうことだったのではあるまいか。
 先日の和也との口論以来、楓はこの無力な主人を守り通すということを、今まで以上に真剣に考えていた。その中で一つ、思い当たったことがある。
 先代の力は強大だった。それ故に楓は、恐らくは和也も、庇護するべき主人というよりは、時には共に戦う人間として、もっと言ってしまえば、いざという時の頼れる戦力として見てしまっていた節がある。その甘えが、油断が、結果的には主人の命を奪ってしまった原因だったのではないだろうか。
 だとしたら、今度は、その過ちを繰り返してはならない。
 神子守の本分を全うするのは、今をおいて他にない。
「ご安心を、日神子様。私どもが一命に代えましても、必ずやお守りいたします」
 決意を新たに、楓は述べる。しかしその言葉に、みるは戸惑ったような表情を返した。
「そんなっ。そんな風に自分の命に代えても、なんて言われるの嫌だよ。楓さんも和也君も、死ぬなんて駄目だよ」
「分かってますがな。要はそれぐらいの意気込みでお守りしますって話ですよ。だからみる様は、安心してくれてええんです」
 泣き出しそうな主人の気勢を、和也は陽気に笑いながらいなす。
 口を動かしながら、彼はポケットから取り出した符を壁に貼り付けていた。
「それは?」
「陣地の確保。いや、命綱の設置っちゅうた方が正しいな」
 その一つに留まらず、少し間隔を置いて、和也は次の符を貼りに掛かる。
「こっから先は相手の巣や。馬鹿正直に突っ込んでっても、十中八九泣きを見ることになる。せやからこうやって、相手の結界の中に少しでもこっちの領域を確保しとくんや」
「どれ程の効果が期待できる?」
「大したことは出来へんよ。ピンチの時の一時しのぎ程度やな。けど、無いのと有るのとでは大違いやろ」
 ほなちょっと待っててや、と言い残し、和也は二人から離れ、駅の構内を歩き出した。こちら側全体に満遍なく貼って回るつもりなのだろう。
 和也の背中を遠目に見つつ、楓は主人の様子を伺う。
 彼女はまだ少し、不安そうな顔をしていた。
 が、不意に、何かを思い切るように勢いよくかぶりを振ると、楓を見上げた。
「日神子様?」
「楓さん、私、怖くないって言ったら嘘になるし、恥ずかしいけど、ほんとは今すぐ逃げ出したいって思ってさえいるの」
 言葉に詰まる。
 日神子の使命が過酷なことなど、先代の時から側で見て、知っていた。しかし先代は強かった。全ての労苦を一人で呑み、弱さを外に漏らすところは、ほとんど見たことが無かった。
 今、彼女に同じことを求めるのは間違いだろう。だがそれでも、それが日神子の使命ならば、耐えてもらう他はない。
「私、死ぬのが怖い。私の見てる前で人が死ぬのも嫌。だからどうしても、怖気づいちゃいそう」
「日神子様」
 いかにして慰めの、いや諌めの言葉をかけようか。
 鈍く思案する楓は、しかし続く言葉を出すことは出来なかった。
「でも、それはきっと皆そうなんだよね。だから私、頑張るよ。会ったことも無い大勢の人達のためでもあるけど、それは結局、楓さんや和也君や、私のためでもあると思うから。だから、頑張れる私は、それだけ幸運なんだと思う」
 論旨のはっきりしない話し方ではあった。しかし、言わんとしたことは、楓には直感的に悟れた。
「私も頑張る。だから楓さんたちも、本当に無茶しないで」
 言って、彼女は背負った筒に手をかける。
「私には神器のお守りもついているし、身を守ることはなんとか出来ると思うから」
 十種神宝の一つ、八握剣。彼女には完全に扱えるわけではないが、それでも持っているだけで、黄泉軍勢を遠ざけるくらいの効果はある。とはいえ、力の強い妖魔相手には、決定的な守りにはならない物だった。
「日神子様……」
 しかし楓は、警告や諌めを口には出来なかった。
 呆けたように繰り返す呼びかけに、みるは不満げに顔を曇らせる。
「楓さん、こんな時に言うことじゃないけど、やっぱりその呼び方は」
「あ」
 正気づいて、慌てて咳払いで取り繕った。
「申し訳ありませんが日神子様、これは私なりのけじめです。あなた様を主人と認め、守の任につく以上、あなた様はいかなる時も、私が優先的にお守りせねばならぬ存在。そのことを常に自分に言い聞かせることを、どうか許して頂きたく思います」
「でも私はっ」
 会話はそこまでだった。「おまっとさぁん!」と叫びながら、和也が駆け寄ってくる。
「では参りましょうか、日神子様」
 言って、楓は主人に背を向けた。


 さすがに会社側も、エスカレーターの電気までは入れていなかった。
 短いものを一つ、長いものを二つ。下層のホームまでは階段を使って降りる。
 改札を抜けてから、みるも、和也さえも、黙り込んだ。
 見た目は変わらず、開通前の真新しい駅舎に違いはない。だが空気自体が、何か敵意のような思念を孕んでいるように、硬質で威圧的な感触に変わっていた。目に映る全てが騙し絵のようなもので、何かの弾みにその綺麗な表皮が剥け、下からおぞましく粘ついた混沌が顔を出すのではないか――そんな緊張感を、楓も感じていた。
 始まったのは、最初の長い階段を下りている途中だった。
 気配に気付くや、足元を蹴りつけて重力の中に飛び出した。背後に束ねた髪が、尾を引いて後を追う。
 後ろで、主人が空気を呑む気配。愛剣を引き出しつつ、「後ろ!」と短く叫ぶ。
 階段の下方、そして上方からも沸いてくるのは、既に見知った屍人たち。血も息吹も通わず、瘴気に凍てついた体を引きずり引きずり、妄執の名残を追いかける冥界の兵軍。
 彼ら黄泉軍勢との戦いで気を付けるべきは、数を向こうに囲まれ動けなくなること、それだけだった。膂力は人の限界を超えた凄まじさながら、動きは老人、いや、およそ全ての生きた物よりも遅い。
 駆け抜けざまに二閃、三閃。先行していた兵士たちを薙ぎ倒す。
 決して止まることなく、敵の動きよりも一歩も、二歩も、速く先に。
 伸ばされる腕を避け、かいくぐり、時に切り飛ばして、亡者の群れを掻き回す。
 黄泉軍勢たちは、全く反応出来ていなかった。まるで視認できる時間が一拍ずれているかのように、楓の残像だけを求めて無為な攻撃を繰り返す。当然、そんな攻撃には間違っても当たる楓ではない。
 首を払い、心を突き、胴を薙ぎ、袈裟に断ち割り。
 刹那の間に十体以上の敵を屠ると、楓は飛び上がって一歩引いた。
 見上げれば和也も、上の方で善戦を続けている。
 真言が響くたびに、緑の閃光が荒れ狂い、敵の塊を吹き飛ばしている。
 しかし。
「和也、これはまだ小手調べですらない! ぐずぐずしている暇も無いし、下手に消耗するわけにもいかないぞ!」
「わぁってるがな!」
 叫び返して、和也は懐に手を入れる。
 ばら撒かれた紙吹雪は、舞い散るかと思えた刹那、宙で白く燃え始めた。
 そのまま落ちることも尽きることも無く、光の群体は和也の頭上に浮かび、命令を待つように、静かにたゆたう。
 人魂……いや、それらは符紙を媒体に呼び出された、蛍の姿をした式神だった。
 手品と言っても通用しそうな瞬時の結印を刻み、和也が叫ぶ。
「っしゃあ! っけぇ!」
 術者の号令に一転、式神たちは猛然と散開し、敵に向かって飛来する。
 楓の頭上を飛び過ぎた一群は、そのまま失速することなく、弾けるような音を立てながら、次々と黄泉軍勢たちに衝突し、囲いを貫いていく。
 体を貫かれた黄泉軍勢たちは、その勢いのまま倒れ伏し、ゆらゆらと白い炎を吹き上げながら、崩れ始める。
 見ている間にも、白い光はまたたき、爆ぜ、炎が交じり合ったのか、巨大に膨れ上がって、敵の影を残らず呑み込んだ。
 一瞬の光の洪水の後に、楓の出番は終わっていた。
 敵が一掃されたのを見届けて、楓は残心を配りながら、再び頭上を仰いだ。
「どや、片付いたで」
 言って、和也は微かに笑う。
「大丈夫なのか?」
「わいはそないにヤワでも無鉄砲でもないわ。まだまだいけるで」
 相棒に一つ相槌を返して、楓はみるを見た。
 さすがに刺激が強かったのか、彼女はわが身を抱いて震えていた。しかしその目は、真っ直ぐにこちらに向けられていた。今の戦いを、目を逸らすことなく見ていたのだろう。
「日神子様、敵は退けましたが、ここでこうしていては、何時また押し寄せてくるか分かりません。急ぎましょう」
 敢えて強い口調で言い放つ。
 震えながらも、彼女は頷いた。
「よっしゃ、急ぎましょうみる様」
 言って、和也がその手を引いて歩き出す。
 楓は剣を下げたまま、二人の先に立って歩き始めた。
 
 
「さすが、腐っても神子守といったところかしら。かなりの実力ね」
 そう笑って、女は傍らの男に目を向ける。
「本当に大丈夫なの、その刀の力とやらは? 貴方の戦いぶりは知っているけど、無理なようなら私が一人で片付けてみせてもいいわよ?」
「腐っても、とは?」
 挑発を意に介することなく、村雨はただ、疑問に思ったことだけを聞き返す。五馬はさも馬鹿にしたように、鼻を鳴らして答えた。
「あの二人は先代の日神子からの守人よ。主人の死に目にも間に合わなかったっていう不忠者。しかもそれで主人の後を追うならまだしも、新しい日神子の守に就くなんてね。恥知らずもここまでくると、笑う気にもなれないわ」
 言葉とは裏腹に、五馬は唇の端に、刃のような冷ややかな嘲笑を浮かべていた。恐らくこれから相対する時にも、技よりはまず、この笑みと言葉で相手の心を切り裂くつもりに違いない。
 村雨は黙然と目を閉じ、彼女の言葉を繰り返す。
「死に目に、間に合わなかった」
 呟く声は、常よりも枯れているようだった。


「なんや、これ……」
 背後で呟く和也の声は、ひどく掠れたものだった。
 長い下り階段を抜けた先には、異様な光景が広がっていた。
 地下鉄の、駅のホームである。それは一目で分かった。駅全体を白で統一するつもりなのだろう。ホームもここまでの壁や床と同様、白の石材で覆われている。視界の中には三人がけの箱型ベンチが数点。一番近くのベンチの隣には、中が見えるよう胴にガラス窓の開いたゴミ箱が並んで立っている。
 左右に視線をやれば、電車の走路が走っている。
 明かりは、この期に及んでも、備え付けの蛍光灯から、特に異常も見られない光が注いでいた。
 その姿自体は、異常ではなかった。
 問題は広さだった。両側の上りと下りの車線の間が、大型の競技場がすっぽり入りそうなくらい開いている。片方から乗り換えようと走っても三分はかかりそうな、つまりとても間に合いそうにない距離だった。
 見上げれば、それこそドーム球場のような高い天井が、白い殻となって被さっている。あまりに広すぎるせいか、話す声も物音も、全く返ってこない。
 雪原に迷い込んだような錯覚を受けて、楓の目は一瞬、遠近感を喪失する。
「こら、物理的なもんやない。空間自体が歪んどるんや」
 言わずもがなのことを口にしつつ、和也は懐から出した符をそばにあった柱に貼り付ける。
 ボソボソと短い呪文を呟くと、その符は微かに緑色の光を発した。
「ん、なんとか繋がっとるみたいやな。これなら閉じ込められることは無いかな」
 満足げな微笑を浮かべて、和也はみるに向き直る。
「みる様、結界の核らしき気配、何か感じまへんか? 多分みる様がこの中では一番感知に長けているはずなんや」
「え、でも……」
「わいにはちっと難しい。向こうも当然警戒して、シールドを施しとるんや。単純な探知術じゃ、なかなか探れへん。けれど結界を構成し、機能させている以上、気の流れ、循環は絶対に止めることは出来へん。みる様ならその流れ自体を遡って核を探れるはずや」
 ためらいは一瞬だった。小さな主人は目元を引き締め、強く頷く。
「うん、やってみる」
 目を閉じ、みるは集中に入る。日神子としての力と権限。森羅万象の移ろいを感じ取り、山河木石の全てに宿る御魂の声を聞き、そしてそれらに呼びかける、超常の感覚。それを研ぎ澄ませて、この閉ざされた世界の息吹に聞き入らんとしている。
 黄泉の結界に意識を張り巡らせることが、一瞬楓の頭を掠めたが、すぐに打ち振った。それよりも、無防備になっている今こそと、辺りの気配に気を配る。
 それが幸いした。
 即座に剣を構えなおし、主人と相棒に向き直る。
「和也、右! 結界!」
 言い放った直後には、光の防壁が三人を包んでいた。攻撃が来たのは、それから一秒後だった。
 突然、和也から二三歩ほど離れたホームの床が爆発した。
 飛び散る瓦礫と舞い上がる粉塵にまぎれて、大型バンほどもある巨大な影が躍りかかり、障壁にぶつかって跳ね返される。主の悲鳴に重なって、上質紙を引き裂くのにも似た暴力的な感触の呼気が、地下の空気を切り裂いた。
「とけ!」
 叫んで、粉塵の中に飛び出す。視界が確保されている必要はない。敵は巨大だ。その動きは空気の揺れで察知できるし、こちらの狙いに困ることもない。
 煙幕の彼方から、大蛇のような影が、左回りに飛び掛かってくる。目で軌道を読むより先に、肌が風の知らせを受け取っていた。
 弧の外に身をかわしつつ、斬撃。
 外殻を割り、そのまま切り飛ばす。薄緑の体液が跳ねて、荒らされた床に飛び散る。
 すれ違った向こうで、相手が再び障壁にぶつかったらしい、火花の飛ぶような音が鳴った。
 対峙する頃には、煙が晴れてその姿が明らかになっていた。
 虎縞の体毛に身を包んだ、巨大な大蜘蛛。
 頭部に覗くのは、昆虫特有の感情を映さないレンズではなく、明確な殺気を湛えた獣の瞳孔だった。
「なんや、それほど大物ってわけでもないなぁ」
「油断するな」
 土蜘蛛はちょうど、楓と、和也の結界に挟まれる形になっていた。
 楓からの距離は五歩と少し。和也はすぐ真後ろだが、障壁がある上に背後に当たるため、すぐには攻撃は出来ないはずだった。
 私は、やれる。
 口の中で呟いて、楓は握る手に力を込める。
「天切る 地切る」
 唱えつつ、剣を下段から、半円を描くように持ち上げる。蒼光を放つ剣が、じわじわとその光を強めだす。
「悪しき祓へ」
 油の切れたワイヤーがしなるような音と共に、土蜘蛛の顎が開きだす。脚爪と毒牙に並ぶ最大の武器、にかわ状の粘着糸を吐き出す予備動作だった。
「祓い給へ」
 右上段、顔のラインに持ち上げた両手で柄を握りこみ、八相の構えを取る。剣は松明のように煌々と輝き、破邪の光で化生を照らした。
「清め給へ!」
 そのまま大きく踏み込み、駆け出す。
 土蜘蛛の口蓋から、白い粘液のようなものが溢れ出し、直線を切って飛来する。
 それを、構えた剣で打ち落とした。
 一度絡み付けば騎馬の突進すら止め、自身の体重以上の物をも吊り上げるというトリモチが、音を立てて白く蒸発する。
 糸を振り払った先には、残された右の前脚が、風をまとって頭上から落ちてくる。
 今度は先程とは逆に、命中の寸前、半ば倒れこむような勢いで、弧の内側に飛び込む。
 前転。
 起き上がったところに、左右に開いた蛮刀のような牙が待ち構えていた。
 勢いを殺さず、そのまま向かって左の牙を叩き折り、返す刀で右を弾く。動きの止まったところで、口を半分に断ち割った。
「ナウマク サンマンダ バザラダン カン!」
 蜘蛛の背後で朗々とした詠唱が響いた直後、妖怪の巨体が内側から弾けるようにして爆発を起こす。
 飛び散る体液は空中で蒸発し、体毛の焦げた炭が舞った。
 そうして、巨体が、存外に軽い音を立てて、崩れ落ちる。
「やっぱ大したことないわな。こいつはここのヌシに飼われてる番犬でしかないっちゅうわけや」
「ああ」
 土蜘蛛の体をしばし観察し、絶命を確認。
 警戒を残しつつ、楓は重い息を吐いた。
 満足すべきなのだろう。戦える。戦えているのだ。敵の動きにも対応できているし、その上で自分の流れに乗って、こうして倒すことが出来た。余計な焦りなど、気にしていいことは一つも無い。
 迷いを振り切るように、剣を一閃。血振りを終え、主人に向き直る。
「お怪我はありませんか?」
「うん、和也君が守ってくれたから」
 言葉少なに、主人は答えた。目は閉じられている。二度目とはいえ、巨大な怪物に襲われれば、致し方無い反応だろう。
「みる様、急かして悪いんやけど、今ので本格的にわいらは目立ってしもうた。敵さんが本腰いれてくる前に、一刻も早く結界を潰さなあかん」
 なだめるように言い聞かす和也の声には、まだ焦りは無い。
 みるは目を開けた。
 和也に促されて深呼吸を二回。
 そうして、やや落ち着きを取り戻した声で話す。
「その、途中だったから、はっきり見えなかったけど、あっち」
 言って、ホームの一方の縁を指差した。
「あっちの方の、もっと下から、冷たい気が流れてくるみたい」
「ならばすぐ行きましょう。……和也」
 二人を促し、楓は再び先頭に立とうと、先んじて歩き出す。
 主従二人も、無言で彼女の後に続いた。
 周囲に目を配る。
 遠近法に挑戦するかの如くに拡張された広大なホームには、今倒した土蜘蛛を除けば、依然として動く物の影も無い。敵が来るとしたら、やはり地中からだろうか。
 背後では、変わらず小動物のように怯える主人と、彼女を励ますように、時折軽口を叩く相棒の姿がある。
 警戒の内にも、ふと、上の改札でのやり取りが思い出された。
 彼女は、やはり先代とは違う。明確に弱さを持ち、しかもそれを隠そうともせず、自分で認めてしまっている。
 だが、弱いだけではない。
 先代とは違う。だが日神子として、十分な敬意と信頼を払える相手であるのは間違いない。
 ならば、今度こそ、何があっても、守り抜く。
 決意を新たに、楓は意気を高めた。
 警戒の盲点を突いて、主人の悲鳴が上がるまでは。


 その女には、どことなしに見覚えがあった。
 長い黒髪が似ていたのだろうか。凛とした立ち姿が、面影を呼び起こしたのだろうか。透き通った、しかし厳しい眼差しが、埋もれた記憶を掘り返したのだろうか。
 その全てであるような気もしたが、全部が違っているような気もした。全体として見覚えのある気がするが、全てが一つずつ、ずれているような。
 それでも、やはり何故か、気になった。
 出会う時と場所が違えば、あるいは事情は違ったのだろうか。
 そこまで考えて、やめる。
 詮無いことだ。どの道こういう形で出会ってしまったのならば、互いに命のやり取りをするだけ。余計な感傷など差し挟まないのが身のためだ。
 結論付けると、村雨は五馬を追って、闇の中を歩き始めた。
 何故か足取りは遅かった。


(続く)