世界は赤く曇っていた。
 密度の濃い霧が視界の全てを埋め尽くし、意識の流れにすら霞をかける。生臭い臭気が鼻と喉を潰し、知覚ばかりか思考をも鈍らせている。
 血煙。
 あやかしの術による幻惑か、それとも自身の五感に焼きついた残像か。全ては赤く滲んだ世界の向こうに閉ざされ、踊る影のみが左右に流れる。
 影は多彩だった。人の姿のように思えるものがあれば、獣や長虫、さては蛸かと思わせる異形もあった。同じ形をとり続けるものもあれば、途中で形を変えるものもあった。
 あれは何だ?
 自分を取り戻したのは、影を見ていて思い浮かんだ、そんな問いがきっかけだった。
 人型の影。それに目がひきつけられる。
 人の形。そう、それが私の姿だ。私は、私は……。
 何をしている?
 それを皮切りに、怒涛のように次々と疑問が押し寄せる。
 手に剣はあるのか、どんな格好をしているのか、そもそもここはどこで、これから何をしようとしていたのか。
 分からない。
 自分の姿を見ることが出来ない。ここがどこかも分からない。手の感触も、神経が途切れているかのように断絶している。
 分かるのは最後の問いだけだ。だが、それで十分だった。
 私は目指していた。
 行かなければならない。あの方のもとへ。あの方の剣となるために。
 そうして、霧の中を進み出す。
 ……移動しているという実感はなかった。しかし、それしか出来なかった。
 時の流れもまた、不鮮明だった。永劫と瞬間、二つの極の間を、波形を描いて意識が飛び回る。
 ある時は、誰かが隣に並んでいた。
 ある時は、何かが猛然と踊りかかってきた。
 煮え立つ空気に緊張し、仲間の気配に安堵し、傷の痛みに転げ、敵の影に激昂を覚えて――。
 戦い、逃走、休息、様々な体験の断片が、休みなしに飛び込んでくる。
 不意に、惑乱する意識を切り裂いて、聞き覚えのある声が届いたような気になる。
 求めていた声。それを目掛けて走り出す。
 今度こそ――。
 ……。

 夢はいつも、そこで途切れる。あくまでも現実に忠実に。


「剣光」
pero

 第一章 守の章


 早朝の澄んだ空気を裂いて、木刀が高く鳴いた。床板の上を流れる影に輪郭を取り戻す暇を与えない程に、体と武器は留まることなく動き、跳ねる。
 前後にステップ、そして踏み込み。足の動きに刹那も遅れることなく、右、左、右と、眼前の空間に続けざまに得物を打ち下ろす。
 激しい勢いだったが、運動を重ねる内でも姿勢が崩れることはなかった。木刀の剣先から、摺り足に浮かせた左のかかとに至るまで、多少の揺らぎこそあれ、常に統一された、隙の無い安定を保っている。動き方も型に従ったものであったが、それだけに均整が取れた、無駄の少ない動きだった。個々の動作も速く、踏み込みから打ち下ろしへの繋げ方も、一呼吸の動きとして完結しているかのように見える。
 しかしただ一点、打ち下ろしから中段への復帰が、やや鈍い。攻撃までの動作が素早いだけに、構えにかかる間は目に付いて遅く感じられる。見る者が注視すれば、その原因の一端が、打ち込みに現れていることに気が付いたかもしれない。振り上げまでの動きのむらの無さに反して、振り下ろした時の木刀が、少し大振りになっている。力が入りすぎているとも、集中力が鈍っているとも、言えただろう。
 一際高く、空を薙ぐ一刀を打ち下ろして、楓は素振りを止めた。否、止めざるを得なかった。振り下ろされた木刀は再び返ることなく、逆に、萎れた花のように垂れ下がる。動きの止まった足は根のように、背筋と肩の線は柳のように、固まり、たわんで、姿勢の調和を崩した。
 道場には楓一人の姿しかなかった。ただ一人の修練者が動きを止めると、広い空間には静かに凪いだ空気が戻り始める。酸素を求めて喘ぎながら、楓は引き結ぶように目を閉じた。
 動悸が極限まで高まっていた。熱に痺れた頭から耳鳴りが吹きこぼれて、意識をかき乱す。温度を失いだした汗の不快な潤いには、微かな吐き気さえ覚えた。
 自分の動きに、まるで満足がいかなかった。速く動こうとするほどに、イメージと体感の間に、埋めがたい差が開く。
 かつては、こうではないはずだった。もっと落ち着いていたはずだし、修練も変に疲れることなく、適度に、そして効果的にこなせていた気がする。しかし具体的にどうしていたのか、それが思い出せない。どういう姿勢で自分の生に向き合っていたのか、分からない。
 剣が鈍い。
 それが、何より気に入らないことだった。自覚があっても、直らない。直せない。
 自覚ではなく、ただの妄想か強迫観念なのかもしれなかったが、ならば尚のこと人に話すことも出来ず、鬱屈とした泥が胸に溜まるのを我慢するしかなかった。
 逆巻く感情の波間に覗くのは、赤い夢の名残。形もなく、感触もない。ただ実体の無い印象だけが、心に染み付いて離れない。それが心を騒がせ、自分自身への目測を狂わせる。
 あれから既に、相当な時間が過ぎている。先代の喪を弔い、新しい祭主を迎え、動揺した組織もほぼ再編し終えて、今は新しい出発を迎える時期に来ている。こんな時にこそ、日神子の守たる自分が先頭に立たなければならないというのに、こんなところで、無為な足踏みに捕らわれている。
 足りないのは力。足りないのは速さ。つまり、不安を吹き消せるほどの強さだ。かつてより倍も、倍々も、強くならねばならない。そうでなければ、生き残った意味が無い。
 焦りすぎだとは、半ば自覚している。何事も一朝一夕の特訓で上達するほど甘くはない。修行とは、長の継続を保ってこそ、初めて効果が期待できるものだと、他ならぬ楓がよく知っている。
 だが、それでは遅すぎる。どんな修行も強さも、必要とされる時に間に合わなければ、何の意味も無いではないか。
 目を開ける。朝日を受けて琥珀色に照り映える床が映った。
 動き足りない。そう思った。
 ならば、もっと動かなければ。
 息を落ち着け、顔を起こし、木刀を再び構えようとして。
 木刀が楓の手の中から滑り落ちた。
 足元で硬い音が弾み、道場の空気がクシャリと歪んだように感じられた。
 震える右手の手首を、左の手で強く握る。
 体を必要以上に酷使するのは、論じるまでもなく、愚行に過ぎない。そんなことすら忘れてしまったというのか。
 己の不甲斐なさに叫びだしそうになって、しかしそれでもなお、楓の苛立ちは消えなかった。あてがなくても、無謀であっても、とにかく走り続けねばならないような、そんな焦燥感が胸の奥でくすぶり続けていた。
 不意に寒気を感じて、楓は身をすくませた。身に着けたものは、剣道用のごくありふれた白の道着と紺袴で、今はたっぷりと汗を吸い込み、疲れた体に重くまとわりついている。濡れた生地は体温が落ち着いていくのに従って冷え、体から熱を吸い出し始めていた。
 つまらないことで風邪などひくわけにはいかない。
 言い訳のように自分に言い聞かせつつ木刀を拾い上げると、楓は足早に道場を立ち去った。


 脱衣場から出ると、さすがに温度差が堪えた。着慣れた私服の上からも、山の冷気が体に染み込んでいくのが感じられ、身震いが走る。しかし悪寒というほどのものではなく、湯の暖気が吹き払われていく目の覚めるような感覚に、清々しさを感じられた。ささくれた気持ちが多少とも落ち着いていくのを感じて、楓は深く息をついた。
 廊下に人気はなかった。さすがに家人の多くは目を覚ましているだろうが、日ノ宮の館は大きく広い。術者たちの修練場にしても、別に道場だけというわけではない。特に計ってのことでなければ、皆で一緒に、ということはなかった。
 深閑と静まり返った廊下を歩きだす。
 修練の後に朝湯を借りるのは、以前から楓の数少ない楽しみの一つとなっていた。しかし不相応な贅沢をしているような負い目を感じるため、特別の用事がある時を除けば、週に二回程度に留めていた。入らない時は、タオルで汗をふき取るだけで済ませる。最近はそればかりだったが。
 あの時以来か。
 思った時には、楓の目はもう険しいものに戻っていた。
 すぐに目を閉じて深呼吸をした。足を止め、呼吸にだけ意識を傾ける。
 乱れがひどい。
 技量以前に、こんな状態で守が務まるとは思えなかった。さすがに楓は、昨日今日に戦いを覚えた新米戦士ではない。今の自分の状態が危険極まりないことも、十分に承知している。
 守を名乗る資格はないのかもしれない、とも思う。このような無様な状態が続くようでは、遠からぬ内に自分が堤の穴となって、日ノ宮に、ひいては今の日神子様の守りに、致命的な隙を招いてしまうだろう。真に日神子様のためを思うならば、そうなる前に守の職分を返上し、去るべきなのかもしれない。
 首を振る。
 それでは、駄目だ。経緯がどうあれ私は、私と和也は、生き残ってしまった。日神子様がその力を尽くして、私達を生き延びさせて下さった。託されたのだ。私の命は、もはや私のものではない。
 守を辞めるわけにはいかない。やり遂げねばならない。今度こそ。
 それだけの地力はある。こんな状態であっても、やはり接近戦では、日ノ宮で自分の右に出る者はいない。
 鍛錬も続けている。かつてのそれよりも厳しく、激しく。
 よほどの危地に見舞われない限り、負けることはないだろう。
 たとえば、あの――。
「愚か者っ」
 小さく、だが鋭く、楓は囁いていた。低く、殺気を孕んだ声。それが別の声に悲鳴を上げさせた。
「ひゃっ! ご、ごめんなさい」
 驚いて目を開けると、まるで頬を引っ叩かれたような顔をして、彼女の主が立ち尽くしていた。
 廊下の中ほどだった。浴場を出て、まだいくらも行っていない。果たしていつの間に近づいたのか。まずは自身の腑抜けぶりを恥じ入り、次に自分がたった今口にした言葉を思い返して、楓の瞳は刹那のあいだ焦点を失い、虚空をさまよった。
 彼女の主は従者の様子を察した色もなく、湿った表情で縮こまっている。
 うなじを覆う程度に伸ばされた髪は柔らかく見事な艶を持つが、少し色が薄い。そのため陽光の下では、透けるような亜麻色に映る。顔は全体的に丸く小さな造りだったが、目だけはその中で大きく、いつも、清冽な泉を思わせる明るい光を湛えていた。その目が、今は本当に水気を含んだ光り方をしている。
「あの、すみません。楓さんの邪魔をするつもりはなかったんです。本当にごめんなさい」
 肩を縮こまらせて、ダルマのような勢いで頭を下げている、袴姿の少女。それが楓の新しい主、今代の日神子、大槻みるだった。
 喉の奥で、壊れた笛のような音が鳴った気がした。楓は反射的に膝を突いていた。
「申し訳ございません。只今の失言は独り言です。決して日神子様を貶めるつもりで口にしたものではございません」言いながら、自己嫌悪に胸が悪くなるのを感じていた。
 なんという醜態か。心を静めるどころか、自制を失って内の澱みを吐き出してしまうとは。
 意識すると、さらに頭に血が上った。握った拳に爪が食い込み、突いた膝が床を噛んで震える。落ち着こうとするほどに心臓が跳ね上がり、服の内に嫌な汗が湧き上がるのを感じた。
「無礼の限り、申し開きのしようもございません。いかなる懲罰であろうと、なんなりとお申し付けください。いや、お申し付けくださるようお願いします」
 叩きつけるようにまくし立て、額が床と接するほどに、深く頭を下げる。対して、頭上から泡を食って跳ね上がった声が降ってきた。
「あの、あの、楓さん、お願いだから、そんなのやめて、顔を上げて下さい。お願い」
 困り果てた声音に、頬が燃えた。しかし押し黙る間にも、夕立のような勢いで、上ずった声が途切れることなく耳に落ち続ける。仕方無しに、楓は痛みを堪えるようにノロノロと、熟れた柿のようになった顔を持ち上げた。
 案の定というべきか、主人の顔は目の前にあった。跪いた自分に合わせて、彼女も廊下に屈み込んでいた。瞳にはまだ困惑の光が残っていたが、今はむしろ、こちらを気遣う色が強い。楓は恥じ入り、再び顔を下げそうになって、慌てて顎を引いた。
「その、ごめんなさい楓さん。私、勝手に勘違いしちゃったみたいで」
 謝罪の言葉が、楓の胸に重く沈む。もしかしてこれがこの方なりの罰し方なのだろうかと、らちもない考えが頭をよぎった。
「いえ、日神子様が気になさることは何もありません。むしろ廊下で独り言などを発して、罵声を吐いた私にこそ咎があります」
 非礼がどちらにあるかなど、この際考えるまでもない。彼女も、それは分かっているのだろう。何か言いたげな顔色のまま、沈黙する。しかし楓の方でも、そこで言葉が途切れてしまった。
 新しい主人を迎えて、まだ一月。当然ながら楓のみならず、日の宮の家人一同、そして主人当人も、新たな主従関係に未だ緊張の糸を張らし、落ち着かない日々が続いていた。しかし中でも楓は、今なおこの主人の言動の一々に面食らってしまっている。違いすぎるのだ。楓の体に染み付いた日神子と守の在り方とは、何もかも。
 一々を挙げだせばきりがないが、結局それら全ては一事に集約できる。威厳の有無だ。常の雰囲気、言葉、立ち居振る舞い、全てが以前とはかけ離れている。よく言えば親しみやすく、悪く言えば品位がない。
 だから悪い、とは思わない。先代は確かに素晴らしい品位の持ち主だったが、良くも悪くも、あまりにも超然としすぎていた。ああした振る舞いを典範とするべきかと問われれば、返答に困る。第一に先代は先代、今代は今代だ。先の主人の影ばかり求めるなど、最も礼を失した態度に違いない。人柄が違えどそこに拘らず、あるがままの相手の美徳を認め、敬意を持って仕える。それが守の本分とすべき心だと、楓は思う。
 しかしそれも行き過ぎれば、例外を認めたくもなる。今、彼女はそんな心境だった。
 新しい主はしばらくの間、眉を寄せて考え込んでいる顔付きだったが、気持ちがまとまったのか、頬を持ち上げるようにして、にっこりと微笑んだ。
「ならあいこだね。独り言で怒鳴っちゃった楓さんと、こっそり近づいて勝手に驚いちゃった私と。だからこれは、どっちもどっち」
 疑問符が浮かび、すぐに泡を食う。「日神子様、問題をすり替えないで下さい。今は私の方に、日神子様を傷つけた咎があると述べているのです」
「うん、でもほんとに私は気にしてないから」
 奇妙な抗議は、暖簾に腕押しとばかりに受け流される。こうした振る舞いが、楓の頭痛の原因になっていると、当人はさっぱり自覚していないようだった。
「それよりも楓さんこそ大丈夫? なんだか疲れているみたいだけど」
 言葉に詰まる。やはり、これは遠まわしな叱責なのだろうか。
 心もち顔をうつむけ、声を改めて、言葉を紡ぐ。
「お見苦しいところを晒してしまいました。日神子様の懸念されるとおり、只今のことは私の未熟によるもの。お恥ずかしい限りです」
 楓としては精一杯の侘びを込めたつもりだったが、主人には不興だったらしい。微笑が崩れて、その下から憂いと、この主には珍しい、微かな苛立ちの色が覗いた。
「そうじゃなくて、楓さん、無理してるんだよ。最近になって急に練習量を増やしたって聞いたし」
 歯軋りが隠せたのは僥倖だった。後で落とし前をつけさせることを決意し、火を飲み込む。だが主人から告げられる言葉に、反論出来ない自分も認めざるを得なかった。
「もっと休まなくちゃ体を壊しちゃうよ」
 告げる表情は、心底から楓の身を案じているといった風情だった。本来ならば嬉しく思えるはずの言葉。しかしそれが、錐のように胸に突き刺さる。先ほどよりも激しく、苛烈な恥じらいが込み上げ、楓は思わず顔を伏せてしまった。
「日神子様にそのようなご心配までおかけしてしまうとは、詫びの言葉もありません。今後はもう少し、身の程に合った修練を心掛けます」
「うん、本当に気をつけて」
 言うのだが、彼女は立ち上がりもせず、楓の言葉を待つ構えを取っている。
 かろうじて口から出せたのは、住処を追われた猫のような声だった。短く「肝に銘じます」と答える。それが精一杯だった。
 一礼して後、立ち上がり背を向ける。無礼だとは思ったが、これ以上、主人との会話に耐えられそうもなかった。
「あ、ちょっと待って楓さん!」
 そう言われてしまえば、立ち止まらざるを得ない。肩越しに主人を振り返る。
「あの、やっぱりその日神子様っていうの、落ち着かないの。名前で呼んでもらえないかなって……。駄目?」
 眉一つ動かさなかったと、そう思う。返すべき言葉は決まっていた。
「私は日神子様の守です。あなた様がいかなる名を持ち、いかなる者であろうと、私にとってはこの世にただ一人、真の忠節をもってお仕えすべき方。それに変わりはありません」
 うん、と力無い返事を返し、彼女の主人もまた、彼女に背を向けた。それを見届けて、楓は一人、廊下を歩き出した。


「「「ナウマク サンマンダ ボダナン インダラヤ ソワカ!!!」」」
 叫ぶ声は、完全に一つになったように聞こえた。
 放たれた帝釈の真言は閃緑の雷槌となり、大気を巻き込み震わせながら轟来する。
 金縛りを脱したときには、既に先触れに走った光に、体が埋没していた。
 三方よりの囲い。間合い、タイミング、彼我の体勢、全てが必中の状況だった。
 音を立てて雷の牢が閉じる。逃れるすべは、無いかに見えた。
「断裁!」
 気合一閃。左前方に飛び込みながら、諸手を振るう。三つの極点を結ぶ、宙に張り巡らされた不可視の力線。鉄綱のごとき感触を持つその一つを、確かな手応えと共に断ち切った。
 途端、アブに刺された馬のように、稲妻が出鱈目に跳ね狂う。領域内の力の流れが乱れ、傾き、制御を失った奔流がせめぎ合って弾けた。
 閃光に続いて、爆音が噴き上がる。衝撃に揺さぶられた立木が枝を失う際にたてる、骨の砕けるのにも似た音が、あちこちから鳴った。余波を地に伏せることでやり過ごしてから、楓は跳ね起きた。
 術者の宿命として、集中していた術を破られた者は、無防備にその吹き返しに晒されることとなる。今もそうだった。楓を囲っていた男たちは二人が衝撃に吹き飛ばされ、少し離れた草むらで昏倒している。残る一人は、なんとか対応が間に合ったらしく、膝立ちになって身を起こそうとしていた。
 驟雨(しゅうう)のごとく舞い落ちる青葉の中を、地を蹴って駆け出す。姿勢を低く、気持ちを前に押し出すように、虎狼となった心意気で足を運ぶ。なびくコートの裾が、風に押されて跳ね上がる。
 相手も、さすがに日ノ宮の術者だった。直視することなく目の端で確認しただけだろうに、的確なタイミングでこちらの斬撃を迎え撃とうと、立ち上がりざま、瞬時に印を結ぶ。
「喝っ!」
 雄叫びと共に緑光の盾が広がり、打ち下ろした神剣と衝突して光を散らした。だが、弱い。神剣との相乗効果で増幅された力の刃は、どう頑張っても術者一人の障壁だけで喰い止められるものではない。
 ぴしり、と、ガラスが欠けるような音がした。
「砕破!」
 闘気を吸い上げ、剣が一際まぶしく、蒼白に輝いた。直後、盾が砕かれ霧散する。膨れ上がった光の余波に、最後の術者も吹き飛ばされた。
 静かになった周囲を見渡した上で、剣を掌中に納める。そこで思い出したように、大きく息を吐いた。
「はーい、そこまでやぁ」
 能天気な間延びした声が、殺陣(たて)の名残を吹き払う。庭の奥から近づく人影に、楓は顔も寄越さずに叫び返した。
「向こうで伸びている二人を頼む」
 たった今倒された男は、呻きながらも起き上がろうと、もがいていた。傍に歩み寄り、手をさし伸ばす。
「立てるか?」
「どっ、ぅも、ぁりがと、ございました」
 恨み言でも述べるような声音で礼を言う男に内心で苦笑しながら、手を掴み、引き上げた。
 ふらつく男に肩を貸して、ゆっくりと歩き出す。
「まだまだ、未熟で……」
「そうだな。三方の囲み撃ちが万全だったら、私を捉えられていただろう」
 コンマ2秒ほどのずれだ。
 聞いて、男は頭を垂れた。
 万全と見えた一斉攻撃の、ごくわずかな齟齬。それが綻びとなって、楓に突破口を示した。言うほど簡単ではない。詠唱からわずかな不協和を聞き取り、空間にみなぎる力の流れから、微かな凹凸(おうとつ)を感じ取る。神懸り的な集中と、野生動物的な知覚と反射が――勘がなければ、到底真似は出来ないことだった。
 とはいえ、危なかったことには変わりない。「万全だったら」という言葉には、だから嘘はなかった。
 だから。
「次は決めろ。逃がさず、守らせず、確実に仕留めるように、細心の注意と最高の技をもって、事に当たれ」
 言い切る楓に、男は気圧されたように、うつむいたまま小さな声で答えた。ふと、泥にまみれたその横顔を、しばし見つめた。
 確か年齢は二十二くらいだったと思う。全体的に丸く、穏やかな顔付きの男だった。まだ年が近いせいもあり、顔にはなんとなく、自分たちと似かよった印象がある。しかし目尻や顎に、岩を思わせる固さが現れ始めているのが見て取れた。
 異能者たちの住まう裏の世界では、年齢による格差は比較的薄い。力の有無、強弱は血の遺伝に、技は家の家伝により伝承されるのが、この世界の常識だ。楓より幼い身の上で、退治や祓いの実地に赴く子供たちも、珍しいものではない。しかしその世界の最高統括者たる日ノ宮に仕える資格が、ましてその頂点に立つ日神子の、その側近たる守人の職が、二十にも届かない若輩者(じゃくはいもの)に下されるのは、やはり異例のことだった。そのことが、急に意識された。
 幼い頃は、自分も叱咤される立場だった。長じて、自分が受けた指導を他人にも行うようになっても、初めは疑問も抱かなかった。
 今、大の大人に対して、命令口調で話す自分は、一体何者なのだろう。
 彼らはよくやっている。それは戦ってみて、よく分かった。自分は? “日ノ宮随一の神剣士”、そんな肩書きに頼ることで、どうにか守を続ける気勢を保っている自分は、人に何か言える立場なのだろうか?
 赤い霧が、瞼にちらつく。
 考え込むうちに、いつしか地面を見ていた。
 日向さん、と遠慮がちにかけられた声に、顔を上げる。
「日向さんを侮辱する気はありません。訓練が命がけのものだというのも、分かっているつもりです」
 だけど、と口にしたところで、反射的にさえぎった。
「言うな。訓練中に味方に殺されるのも、実戦で敵に殺されるのも、同じことだ。前に立ち塞がるものがあれば、それが私であっても」
「なに物騒なこと言うとんのや、姐さん。宮田さんも困っとるやろが」
 割り込んだ陽気な声に振り返る。
 軽快な足取りで近づいてくる、若い男。ダークグリーンのデニムジャケットと、同系色のジーンズに収まった、ほっそりとした体躯だった。だがそれよりも、ジャケットの下から覗く真っ赤なシャツが、コントラスト効果もあって、かなり目につく。黒のスーツ、もしくはそれに準じる黒装束が標準服の面子の中では、かなり色のある姿だった。
「和也、あちらの負傷者は?」
「応急処置はやっといたさかい、心配ないやろ。宮田さんの方は大丈夫でっか?」
「ええ、大事ありません」
 そう言って、男――宮田は、楓の肩を離れて、自分の足で立った。
「もう平気です。日向さん、和也さん、お手数をおかけしました」
「そか、なら先にあがってくれますかい。わいと姐さんは今の訓練について、ちょっと話し合いたいさかい」
 一礼して去っていく宮田を見送って、楓は和也と向き合った。
 体つきと同様に、顔も細かった。しかし怜悧、繊細といった印象は、和也からは程遠い。前髪の根元に開けた額、活気を宿してよく動く目、薄い唇は常に子供のような笑みを灯し、快活な内面を余すところなく面に出している。故に、初めて相対した者は、その陽気な振る舞いの陰にあるもう一つの顔にまでは気付かない。
 今はどちらか、などと考えている間に、和也の方が口火を切った。
「しっかし、今さっきのは笑えん冗談やな。敵に殺されるも味方に殺されるも同じって、そりゃどこのスパルタ軍隊の話や」
 笑いながらそう話す和也から、含む気配を感じて、楓は冷たい真顔を繕った。
「我らは常に死地に臨む危険に晒されている。それに効果的に対処するための訓練だ。生半可な覚悟で挑めば本当に死ぬこともあるだろう」
「言いたいことは分かるんやけどな、それで死んでしもうたら、何のための訓練か分からへんやん」
「訓練で命を落とすような人間なら、実戦では尚のことだ。自分が死ぬだけならまだしも、味方の足を引っ張ったり、いざという時に役に立たなかったりするようでは、話にならんからな。そのような者にはさっさと消えてもらった方が、まだましというものだ」
 辛らつな口調で言葉を吐きながら、楓はそれを、どこか虚ろな気持ちで聞いていた。
 そのようなことは、本心では思っていない。少なくとも、そのつもりだった。
 ここに集うのは、日ノ宮に仕えることを許された選りすぐりの異能者ばかりだ。実力的にも、上下の開きこそあれ、役立たずなど一人もいない。
 そして、単に強い力を持っている者がより良い働きをするとも、限らない。
「姐さん、今の言葉、ほとんど自分に向けて言っとるやろ。危ういとは思っとったんやけどな、今の姐さん、ちっとばかし飛ばしすぎやで」頭をかきながら、楓の気勢をいなすように和也が答える。その飄々とした態度が、どうしたわけか、急に癇に障って見えてきた。
「……自覚してないとでも思っていたのか?」
 場違いな怒気が膨れ上がり、楓は声を憤らせる。
「おおかた日神子様に余計なことを吹き込んだのも、お前の仕業だろう。私の心配をする暇があれば、自分の、いや、日神子様に気を遣ってさし上げろ! 下らんことであの方のお心を乱すような真似をするな!」
 挑むような怒気に和也は目を逸らし――どころか、面倒くさそうな顔で、虫でも追い払うように手を振った。
「自己卑下の相手なんか出来へんわ。とりあえず、わいに言えることは、わい一人の力じゃみる様を守れへんっちゅうことや。わいも、みる様も、姐さんの力を必要としとる。けど、今の自分自身さえ大切に出来ない姐さんには、命を預ける気にはなれへんな」
 言われるまでもない。そんなことは自分が一番よく分かっている。目の奥に熱い気配を感じて、それでも楓は、和也を睨み続けた。
 和也は気にした様子も見せなかったが、おもむろに楓に背を向けると、何かを放り投げた。反射的に掴んだそれは、畳んだハンカチだった。
「ところでなあ、姐さん。日神子様って、みる様そう呼ばれるの嫌がってへんかった? どうしてみる様のお願い、聞いてやらんの?」
 返事は出来なかった。涙声になるのを恐れると、もう声が出せない。それを察したらしく、和也は物穏やかな声で続けた。
「姐さん、悔しいのが自分だけやと思うたら、そら間違いや。わいかて、今でも真柱さんとまともに目ぇ合わすことが出来へん。側近だった術師の皆ともな。情けのうて、申し訳のうて、自分が許せのうなって、しまいに口もきけのうなる。夜中に目が覚めて、それっきり二度と寝られへんなんてことも、まだしょっちゅうや。でもな」
 次の言葉は、想像がついた。衝撃に備えるように、きつく目が閉じられる。
「日神子様は、先代は亡くなった。これはもう、どうしようもないことや。どんなに頑張ろうが、引っくり返すことは出来へん」
 心構えはしかし、微塵も役に立たなかった。急激な墜落にも似た脱力感が、体を走る。それを知ってか知らずか、和也の締め括りの言葉は、穏やかながらも叱咤するような弾んだものだった。
「同じように、姐さんがいくら自分を苛めたところで、別にそれでみる様を守れているわけやない。そんな姐さん見ても、誰も喜ばんわ。それは分かってや」
 和也はそう言い終えると、「ほな先に戻るわ」と、一人で歩き出した。楓はそれを見送ることも出来なかった。

 楓が館に戻ったのは、それから一時間ほど後のことだった。


(続く)