※この物語は、Sinをモチーフとした前日談として描いていますが、大部分は作者の推測と妄想をもとにしていますので、本編とは関係は全くありません。キャラのイメージ等の苦情は受け付けかねますので悪しからず。意見ならば歓迎ですが。














影から白い光が疾った。
遅れるように小さな真空を孕んだ風が襲う。
その音速のような速さで奔ってきた大きなうねりは、まともに触れたものはひとたまりもなく裂いたに違いない。
楓は剣にすさまじい衝撃をおぼえ、とっさに跳びすさった。
それしか出来なかったといっていいだろう。
雲が途切れ、銀色の月光が、影を照らした。
長身の痩躯である。
顔は般若面で隠れて見えないが、はらりと銀髪が舞うのが見えた。
――まるで、月の光が下されたようだな。
楓は死合の場にもそぐわぬ感想を懐いた。
それほど、影と影の持つ剣とは完全な美しさである。
般若面と紅い学ラン。それと、炯々と輝く銀髪と一振りの長剣。
相当な業物と相当な達人に違いない。
達人とは不気味なほど平凡なものであり、それが非凡に変わるとき、既に相手は斃れている。
影もまさに陰であり、非凡を顕在させた瞬間が先の一瞬であった。
先の一撃は触れたものの命を奪う、まさに必殺である。
それだけに、惜しい。

「初めてですね」

影の発した声に、楓の思考は停止した。

「私の剣を受けた人間は…」

影から陽炎のように瘴気が立ち昇る。
周囲の空気が瘴毒そのものに侵されたように澱み、歪んでいく。
それすら、禍々しいまでに人を見せる妖気を秘めた宝石のようだった。
――全くもって、惜しい。
そう思う一方でこれからのことを思うと、恍惚に心ならずも頬が緩む。
初めて好敵手となり得るモノが、黄泉の裔とは――





Sin side story
『因縁』
Produced by NK




 ゆらり、と影が動き、影の持つ剣もきらり、と月光を楓に反した。
瘴気は既に楓の周囲も取り囲もうとしているが、不思議と楓は戦いの熱さに心を浸さずにいた。
その瘴気はたしかに血なまぐささを感じさせるが、それ以上に、
――哀しい氣だ。
そう思わせる何かがあった。
ざざ、と樹がさざめく。
森の中に浮かんだ叢である。
この日の宮の森は鎮守の結界そのものであり、木は邪を払う力を秘めている。
が、男の氣はそれを蓋い、蝕んでいる。
――ここまでの邪を秘めた黄泉の裔がいるとは…もしや日神子様ですら敵わぬかもしれん。
楓はゆっくりと剣先を男へと向ける。
無謀であるのは承知の上である。
単に力量のみで言えば、男のそれは圧倒的だった。
楓の剣など児戯に等しいものであろう。
実際、男の体から瘴気とは別に発揮されている剄鋭さに圧倒されている。
格が違うのである。
それで好敵手、とは他人から見れば片腹痛いかもしれない。
が、楓の中では自分を甘やかさずにいたい。
上を見上げているぶんには、自分に厳しくいられるのである。
それとともに、楓は引くという考えを持たない。
剣を手にあの方を守ると決めたときから、何も変わっていない。
足下に死のある世界である。
そこに堕ちれば、この世から消える。
そうした覚悟の中で自分を活かすとき、死を超越したところに自らを据えるようになる。
戦って、死ぬことを考えなくなる。
戦って生きることが全てである。
死ぬことを思えば、戦う前に死んでいる。
守るべきものがある楓は、決して死ぬことは出来ない。
――身命を賭して、守るべきものがある。
それはとてつもない誇りと矜持であり、
この上なく、幸せなことだった――
既に楓の顔からは笑みは失せている。
相手の死の向こう側に自らの生を見出す、本当の戦士の貌である。

「ふむ…日神子は居ませんか。ぬかりましたね」

般若面の向こうの表情は無論読めない。
だが、声にはどうしようもない冷たさがある。
人を殺してもなんとも思わぬ冷血が流れているのではなかろうか。
――では、先の哀しさはなんだったのか。
楓にとって、哀しさとは戦いそのものである。
勝者も敗者も、同じ哀しみの参入者となる。
人も黄泉の裔も、争えば争うほど哀しみの色を深める。
――愚かしい。
と、楓は思う。
しかし、愚かだからこそ人なのだろう。
では、黄泉の裔はどうなのか。
――狂気ではないか。
常に生死の狭間を駆けることを日常とすることは、切実である。
そういう切実さの中に身を置くと、知らぬうちに発狂するのではあるまいか。
狂気の熱に侵されたものが黄泉の裔となるのか、黄泉の裔が狂気に呑まれるかは楓には分からない。
ただ分かるのは、目の前の男も静かな狂気に侵されているということ。
それが、自らの哀しみを産む。

「…参る」

楓は小さく男に向けてそう呟くと、剣をゆっくりと横に払った。
秋の風が森の木の葉を散らす。
思考を深い場所に埋め、直感と五感とに直接リンクする。
蒼い闘氣がゆらゆらと楓の周囲を蓋い、男の放つ瘴気とせめぎあう。
楓の持つ剣が煌々と輝きを発しだした。

「天切る、地切る――」

男との間合いはほぼ十間(約18.2m)である。
声とともに楓はその距離を一気に跳んで詰める。
勝負は一瞬である。

「八方切る、天に八違、地に十の文字――」

月が群雲に覆われ、叢は一瞬漆黒に包まれる。
横に構えた剣を立て、一文字に男を一閃の元に切り伏せんと力を込める。
剣先に貫甲の威力と念を込める。

「秘音、一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々――ッ!?」

が、次の瞬間。
楓の声は半ば強制的にその詠唱を止めさせられた。
体がびくん、と大きく痙攣する。

「がッ………はッ……!」

顔が苦痛にゆがみ、口から血が一筋滴り落ちた。
右手から剣が落ち、黒い地面に音もなく刺さった。
じわ、と胸から腹にかけて温いしみが広がっていく。
楓の体には、背中から胸を貫くように剣が刺さっている。
ごぼり、と口腔から血があふれた。
剣は、男の影から楓の背中を穿ったのだ。
――影を介するとはよもやそこまで高度な術者でもあるとは。
楓は、己の不明を呪った。

「悪いのですが、祓呪の秘言は私にもあまり快くないのでね。口を封じさせてもらいました」

目の前の男がどこか愉快そうにそう云う。
剣は確かに背後から左の肺腑を貫いていた。
これでは確かに声は出せない。
しかし、なぜ殺さなかったのか。

「貴方には、傀儡になってもらいます」

背が総毛立つのを感じた。
膝ががくり、と崩れる。
見れば、胸の傷からは血とはまた別の黒いしみがじぐじぐとその範囲を広げていた。

「この剣は大陸のものですが、今から二千五百年の昔、その怨みゆえに生きながら鬼道に身を落した者の剣…その怨念は傷ついたものは勿論、持つものすら呪います」

男は力の入らなくなった楓の顎に右手をかけると、口を強引に開けさせる。
左手をその口にかざし、おうおうと溢れる邪気をその中に流し込まんとする。

「嗚呼、貴方に溢れるほどの邪気を流し込んだらどうなるでしょう…その凛とした顔が泣きすさぶ様、想像するだけでたまらないですね…その後、貴方は日神子を殺すのです。その手で」

般若が壮絶に笑んだように見えた。
その刹那。

「ナウマク サマンダ バサラダン カン!」

ごう、と。
緑色の輝きを持った刃が楓の前方、男の居た場所を襲った。
が、既にそこに男の姿はなく。
その姿は、既に十五間(27.3m)ほどの後方にあった。
一瞬で、そこまで跳びすさったのである。

「ふむ、もう一人いたとはね…少しばかり、気を抜いていました」

しかし、男の声は愉しげである。

「まあ、たいして変わりはありませんね。日神子を殺す人間がもう一人増えただけ――!?」

 般若の目が驚愕に変わった。
楓の前にもう一人の学ラン姿の男の影がさっと現れる。

「元気か?楓姉さん」

どこかおちゃらけたようなその声が、今はどれだけ心強いことか。
その声の主――和也はその場に屈んで楓の脇を抱えると、傷口に符札をかざす。

「遁甲隠行や。あいつの目にはわいらは見えへん…っと、止血はこれで良し」

しかし、次の瞬間、和也は顔を顰める。

「この怨念、ちとやっかいやな…これだけ強烈で歴史も深いもんは、付け焼刃では払いきれへん」

そう云うと、和也は印を切る。

「オン シュリマリ ママリマリ シュシュリ ソワカ」

ぼう、と楓の傷口が緑色の淡い輝きに包まれる。
すっと、自らを戒めていた呪縛が払われていくのを感じる。

「これで動けるし、声も出せるはずや。けど、痛みはあんまり抑えてへんし、後十分もすればまたその怨念が暴れだすで」

「……十分だ。恩に着る」

楓は自ら着ていたロングコートの両袖を破り、それを結わえてたすきを絞るように止血すると、その場を払って立つ。
和也もそれに促されるように立った。

「引くで。宮の庭に粛殺の結界が張ってある。そこまでいけば、あの化けモンもどうにかできるはずや」

「…和也。どうやら、それは難しいようだぞ…」

オン、と。
空気が、鳴いた。

「……何やて」

和也の顔が苦々しげに歪んだ。
自分が自信を持って繰り出した術が予想だにしない方法で破られるとは。
――まさか、場の空気を全て自らの氣で染上げ、こちらを丸裸にするとは。

「ほんま、桁違いやないか…」

ぎり、と歯が軋んだ音を立てる。
しかし、その顔は苦笑とも喜びとも取れる表情が浮かんでいた。

「全く、嬉しい限りやで……っ!!」

和也と楓は同時に左右に跳ぶ。
その跳んだ後を、恐ろしいほどの鋭さと邪気を孕んだ風が駆け抜けた。

「和也!」

「わかっとる!」

守と共に過ごした時間は短いかもしれないが、渡ってきた修羅場の数自体は少なくない。
これだけの言葉で二人は十分に意思を交わした。
すなわち、楓は剣刃による白兵戦を。
和也は遠距離からの補助と術による攻撃にそれぞれ専念するのである。

「吐菩加身依美多女(とほかみえみため)、祓い給え、清め給え」

和也は横に二、三歩続けざまに跳びながら祓詞を唱え、周りに濃く沈んでいる邪気を祓った。
さぁ、と周囲を染めていた邪気は存外あっさりと祓われる。
視界が開ける。
楓は、間合いを広く保ったまま、佇む男を凝視する。
痛みは既に彼女の感覚からはなくなっている。
彼女は、自らの持つ意味を再び考えた。
――我が身は剣、剣は我が身。
鐵(くろがね)のように熱く冷たく、直にしなやかな輝きを放つ剣のそのさまは、楓の身心をそのまま形にしたようである。
ならば、剣に我が身の全てを託し、あの方の盾となると誓ったあの日から我が身は剣そのものである。
剣はそもそも邪である、と楓は思う。
人を傷つけ、斃すことを目的に作られたそれ自体が正に為ることはないと言えよう。
自らもすでに多くの返り血に染まって正であるとは言い難い。
――しかし、剣は持つものによりその邪も正に染めることができる。
そのことに気付いたとき、楓の精神は束縛からまぬかれたといってよい。
仕えるお方が正であることに疑いの余地を一片も持ちようがない楓である。
――ならば。剣である私も正になれる。
それに気付いたとき、楓はこみ上げる悦びに身を震わせた。
あのお方の一部になれるような気すらしたのだ。
そして今もまた愉悦に身を震わせている。
次の瞬間、楓は引き寄せられるかのように男に向かって駆けていた。
足の裏が地面を強く掴む。
そのたびにずくん、と治まっていた痛みで、穴が開いた肺腑が疼いた。
楓は、繰り返し漏れそうになる苦悶を噛み殺す。
艶やかな黒髪が左右に翻るたび、一歩ずつ男に近づくたび、喜悦は大きくなる。
時間が何処までも緩やかに感じられた。
拍動していた痛みが、すっと心臓のそれに変わった。
右手に光る剣を右横に薙ぐ。
体の中が沸いたように熱くなる。
顔に当たる風が、急に冷え込んだように感じられた。
楓から再び発せられるようになった闘気が蒼く叢を照らす。
男はその場からすぅ、と横に流れるように動いた。
まるで読むことの出来ない動きである。
剣は血振りすらされぬまま、以前だらりと下がった彼の右手にあった。
――構えは無しか。
それは、決して慢心や油断からくるものではあるまい。
構えというものは形に囚われるということでもある。
形のうちでは構えは大きな意味を占めるが、形を抜け出すことは構えにこだわる限り出来ないであろう。
そこを解脱したとき、構えというものは不要になる。
楓にはそれがよく分かる。
なぜなら、彼女もまたその世界の住人なのだから――

「っあああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

気合一閃。
剣刃が煌く隙すらないような一撃を一文字に叩きつける。
それと同時に。

「ナウマク サンマンダ ボダナン インダラヤ ソワカ!!」

和也から発せられた緑色の雷撃が男を襲う。
この同時攻撃、いくらなんでも全く影響を受けずにはいないだろう。
楓も和也もそう考えたのは間違いではなかった。


が、しかし。

「二人同時ですか…少し卑怯じゃありませんかね?」

飄々とした声が遮られた剣の向こうから聞こえた。
泰然とした表情がのぞく。
男は雷撃を左手の氣の障壁で完全に遮断し、楓の剣戟を右手一本で受け止めて見せた。

「くっ…!」

剣先を跳ね上げるように男の剣を払い、返す刀で次の攻撃を放つ。
腰を低く保ち、躊躇いなく笹払いを仕掛ける。
男の足下を狙ったそれは、しかしあっさりと受けられ、返しに鋭い喉元への突きを見舞われた。
それを紙一重でかわした楓は体勢を右に傾がせながら相手の左脇を狙って射抜くように薙ぐ。
男はそれを学ランを切られながらも流れるような体裁きで避け、楓の側頭部を狙って右足恐ろしい速度でを繰り出す。
それをとっさに柄で受け止め、そのまま捻るように突きを返す。
ここまでの時間、僅か三秒――
――見切られている。
楓は少なからず焦りを覚えた。
学ランを切ったということは惜しい攻撃のようにも見えるが、その実、全く惜しくはない。
確実に攻撃を避けるのに必要最低限の動きで避けられている、ということなのだ。
これを、見切りという。
相手の攻撃を読みきった者にしか出来ないことであった。
事実、今しがた男の首筋を狙って突いた剣も、カラーを掠めるようにしてかわされる。
こちらの呼吸までも読まれているような気になった。
突いた姿勢のまま、剣の根元で強引に首を断ち切ろうと腕を返す。
が、それもあっさりと峰で叩かれ、剣圧に押された楓は踏鞴(たたら)を踏むようにしてあとじさった。
右の腕一本の剣で、である。
左の手は、和也の攻撃に備えている。
――影すら使う術士でもある、下手には仕掛けられん。
楓は先の失敗をくりかえさぬよう、月を背負うような位置で戦っている。
さらさらと動く銀髪が、月光に映えて美しい。
両者は再び一間(1.82m)ほどの間合いを保ち、お互いの動きを窺っている。
次の一瞬、自らの命が消えることも楓は覚悟した。

「オン ソンバ ニソンバ ウン バザラ ウン パッタ!!」

そんな楓を力づけるかのように。
マントラとともに、緑玉のような光弾が、先に雷撃が来たのとは違う方向から男を襲う。
まるで獲物を狙う犬さながらに男の体を狙う。
男はそれを左手でさっと叩き落とす。
が、それは一つに留まらず次々とハイエナのように男の体をつけねらう。
左手の氣を盾のように、男は和也の攻撃をかわしている。
――好機。
それを逃す楓ではない。
一気に距離を縮め、畳み掛けんと剣を振るう。
右袈裟、逆袈裟、横一文字と続けざまに斬り結ぶ。
男はそれを右手一本で見事なほどいなし、払い、薙いで出る。
この状況で完璧に防ぎきり、なおかつ攻撃を繰り出すのは流石と言うべきだろうか。
しかし、先の鋭さはもはやない。
その場から動けず、踏み込めないのだから、当然といえば当然である。
お互いの剣は悲鳴を上げるような剣戟をあがる。
が、それはある種の喜悦にも聞こえる。
神代から今に下された使い手同士の遭遇を喜んでいるのだろうか。
再び袈裟斬りを見舞い、さらに打突を右手一本で伸ばしきるように放つ。
男はそれを当然のように避ける。
――狙い通りだ。
楓は右手を引く反動を使いつつ、左足で相手の空いた左脇を穿たんと体を躍動させる。
今までの攻撃の最大の本命はこの蹴りだった。
この攻撃はかわしきれない。
完全に相手の不意をついた見事な一撃であった。
狙いは左脇の直下。どのようなツワモノといえ、まともにダメージを受ければ一時は動けなる場所だ。

「せやぁぁぁぁぁあああっ!」

ガキッ、と鈍い音が叢に響く。


しかし。
楓の顔は苦悶が、男の顔には余裕の笑みさえ浮かんでいた。
左足は、男の左脇を屠る随分前で食い止められていた。
いま、左足は黒漆の鞘に支えられるようにして宙空にあった。
男はとっさに、右手で左腰の鞘を跳ね上げるようにして楓の攻撃を防いだのだ。

「狙いは良いのですが…まだまだ、他の攻撃がお留守になってますよ」

こともなげに右手の剣を一閃する。
楓はとっさにそれを受けたが、右手一本ではとても耐え切れない。
後ろに転がるようにして受身を取る。
ごろごろと五間(9.1m)ばかり引くと、その直後に人影があるのに気付いた。

「――和也」

 和也は肩で息をしながらも、楓と自分とを包むように防壁を張っている。
お互い、息が切れているのを確認して苦笑した。
相手はおそらく汗一つかいていない。
二人でもどんなに良くても相打ちがいいところだろう。
ならば――

「祝詞を頼む」

「――どういうつもりや」

和也の補助無しではとても敵わないことは先刻承知である。

「知れたこと」

しゃがんだまま、男を見据えた。
鞘で手ひどく打ち据えられた左足が、穴が開いた肺腑が、限界を告げる。

「私ごと、奴をここに封じる」

「………無茶や。できへん」

体を無理やり鞭打つように奮い立たせる。
残された時間はそう多くは無かった。
和也が告げた十分のタイムリミットまで、後どれほどの時間が残っているだろうか。
どちらにせよ、次の攻撃で最後になる。
それが楓にはよく分かっていた。

「頼む、和也。他に方法がないのはお前にも分かるだろう」

「――そやかて、そないな方法も上手くいくわけがないっ」

和也はとっさに、楓の左腕を掴む。
楓は、それに振り返ろうともせず答えた。

「頼んだぞ、和也。信じている」

そんな言葉をかけられ、和也は声を失う。
信じている――その一言が重すぎた。

「…分かった。でもな」

和也は楓の左の腕を力なく放した。

「姐さん、あんたも一緒に帰るんや。これが終わったら、一緒に――」

その声に、楓は思わず苦笑する。

「約束する。盾だけでは、あの方は守れないからな」

左手で顔ににじむ汗を拭った。
風は既に冬に近い冷たさである。

「話は終わりましたか?それでは、今度はこちらから参ります」

男のその声を合図に、男と楓は同時に地面を蹴った。
左足はもう踏み込めない。
穴が開いた肺は、とりあえず塞がっているとはいえ、呼吸するたびに酷く痛む。
手のひらの汗で滑りそうになる剣を両手でしっかりと握りなおした。

「高天原(たかまのはら)に神留(かむづ)まり坐す皇吾親神漏岐神漏美(すめらがむつかむろぎかむろみ)の命(みこと)以ちて――」

和也の唱える祝詞が朗々と叢に響く。
楓は剣を、肩の上に立てるように構える。
所謂截り太刀の構えである。
対する男は下段の構えで一気に飛び込んでくる。
痛めつけられたこの体で、どれだけ粘れるか――

「皇神等(すめがみたち)の鋳顕(いあらわ)し給ふ十種瑞寶(とくさのみづたから)を饌速日命(にぎはやひのみこと)に授け給ひ――」

一身を賭けた剣を一気に振り下ろす。
それに応えるように、男は剣を神速で振り上げた。
お互いの剣が、火花を散らす。

「天津御祖神(あまつみおやのかみ)は言誨(ことおし)へ詔り給はく汝命(いましみこと)この瑞寶(みづのたから)を以ちて――」

鍔迫り合いは力でも体力でも楓に不利である。
それを嫌った楓は大きく円を描くように相手の剣を切る。
しかし、大きな隙を作れば術による攻撃で楓は木の葉のように跳ね飛ばされるだろう。
楓が返す刀で男の首を狙う。

「豊葦原(とよあしはら)の中國(なかつくに)に天降り坐して御倉棚(みくらたな)に鎮め置きて蒼生(あをひとくさ)の疾病(やまい)の事有らば――」

それを男は受けると、流れるような太刀筋で楓の左足を薙ぎにくる。
楓はそれを全力で払い、返突を見舞う。
先のような細工はなし、全ての攻撃に一撃必殺の威力をこめる。
やすやすと弾かれる。
それでもひるまずに、動かないはずの左足で踏み込んでいく。

「茲(こ)の十種瑞寶(とくさのみづのたから)を以ちて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたりや)と唱へつつ――」

ぎしり、と左足が軋むのを歯を食いしばって堪え、右足を相手の足下を払うように放つ。
鋭敏になった耳に、お互いの呼吸音と自らの心音、それと和也の祝詞とが響きあい、奇妙な和音を作る。
それが快い。
子守唄のような和也の祝詞が、心強い応援歌となって楓を励ます。
放った蹴りを、男は跳んでかわした。

「布留部由良由良(ふるべゆらゆら)と布留部(ふるべ)比く為して死(まかり)し人も生き返らむと言誨(ことおし)へ詔り給ひし――」

般若面が揺れ、男の口が覗く。
端正な唇は、笑んでいた。
――ああ、奴も今を楽しんでいるのか。
それならば分かる。
――私も、今この時が楽しくて仕方がない。
楓の唇が、男のそれと同じ形で笑んだ。

「随(まにま)に饌速日命(にぎはやひのみこと)は天磐舟(あまのいはふね)に乗りて河内國の哮峯(いかるがのみね)に天降り坐しを――」

切っ先が踊る。
それぞれ必殺の威力を秘めたそれは、まるで惹かれ合うように不思議な軌跡を見せる。
お互い、小細工はない。
――その体で、よくぞ。
そんな男の驚きと喜びの声が、聞こえるようである。

「爾後大和國山辺郡(そののちやまとのくにやまべのこおり)の布留の高庭なる石上神宮(いそのかみのかみのみや)に遷し鎮め斎(いつ)き奉り――」

楓は一閃一閃ごとに不思議に体を包む力を感じた。
それは、和也の祝詞とは別の力で温かく楓を照らす。
そう、太陽のような力強い暖かさ。
それに支えられるように、再び男と剣戟を交える。

「代代其が瑞寶(みづのたから)の御教言(みおしえごと)を蒼生(あをひとくさ)の為に布留部(ふるべ)の神辞(かむごと)と仕へ奉れり――」

既に切り結んで数十余合。
それでもお互いに刃零れ一つ見せないのは神代から下された剣の持つ魔力であろうか。
楓が袈裟斬りを撃てば、男は突きを見舞う。
それをお互いに叩き、払い、薙ぎ、かわし、返す刀で攻撃に転じる。
まるで、息の合う二人で舞を舞っているかのようで。
どこまでも続くような錯覚に陥る。

「故比の瑞寶(みづのたから)とは瀛津鏡(おきつかがみ)辺津鏡(へつかがみ)八握剣(やつかのつるぎ)生玉(いくたま)足玉(たるたま)死返玉(まかるがへしのたま)道返玉(みちがへしのたま)蛇比礼(おろちのひれ)蜂比礼(はちのひれ)品物比礼(くさぐさのもののひれ)の十種(とくさ)を――」

不意に、和也の声が止まったその時。
一緒に、その美しい舞いも止まってしまった。
和也の前には、美しいそのお方のお姿があった。

「…ここは、引きますか」

男はあっさりと、退こうとする。
流石にあの方と私たちを前に、単騎で乗り込む愚は犯さないようである。

そんな男を、楓は呼び止めた。

「――名を。名を何と申される」

返答は期待していなかった。
しかし、男は、月を見上げてこう言ったのだった。

「那智と。貴方は――」

「楓、と申す」

秋風が、二人の間に冷めた空気をさあ、と流した。

「…覚えておきましょう。再び見えるのを、楽しみに――」

そう云うと、男は空気に溶け込むように姿を消す。
まるで、風に運ばれていったようだった。

「風とともに去りぬ、か…」

昔見た映画にそんな名の作品があったのをふと思い出し、楓は苦笑する。
どこか惚けているような自分が可笑しかった。
不意に、足ががくり、と崩れ落ちる。
体は、とうに限界を超えていた。
自分の心音だけに包まれた世界。
叢に倒れこむと、露に濡れた草が冷たくて気持ちよかった。
上空を見れば、蒼々とした月がある。
――私は、ここで死ぬのかな。
漠然とそんなことを思う中、視界に現れた一つの影――

「楓、しっかりなさい」

慈愛に満ちた笑みを私に授けてくれるその方。
信者ではないが、基督教の聖母の笑みとは、この笑みではないだろうか。

「死んではなりませんよ、貴方には将来がある――」

しゃがみ込み、私の手をぎゅっと握ってくれる。
握られた手の上に、温かい雫がぱたぱたと散った。
その温かさが身に染みるように感じながら、私は意識を失った――




――たまのをを、むすびかためて、よろずよも、みむすびのかみ、みたまふゆらし――




 次に目が醒めたのは、黄泉でなく慣れた布団の上だった。
外は昼の明るさに満ちているが、室内は薄ぼんやりと暗い。
がば、と布団を持ち上げ、上半身を起こす。
辛さはない。
着ているものは藍の絣地の着物。
楓がいつも愛用しているものである。
慌てて片肌脱いだ。
左の胸に生々しくあるはずの傷は、既に痕となっていた。

「感謝しいや――って言うまでもないか」

何時からそこにいたのか、部屋の襖に寄りかかるように和也が佇んでいた。

「なっ――!!」

楓は慌てて再び着物に袖を通す。
冷静さを取り戻すべく、二、三回深呼吸をする。

「日神子様か――」

布団の上で正座になる。

「そやない、言うても信じんのやろ?…他に、そないなことできる人間はまずおらへん」

膝の上の着物を、皺が残るほどぎゅっと掴む。
ぎりぎりと、歯を砕くほど噛み締める。
視界が滲んで、ぽたぽたと着物を藍から紺に濡らした。

「私ごときのために、日神子様の命を――ッ」

「巫」は神に身を捧げる。
それは、神に身を蝕まれる、ということでもある。
その力を使えば使うほど、命の火を喰われていく。
日神子とは、そんな哀しい運命の下に生まれているのである。

「『盾だけではあの方は守れない』――そう言ったな楓姐さん」

楓はじっと視線を膝に落としている。

「その言葉、きっちりそのまま返したる」

そういうと、何処から持ってきたのか濃い海老茶の褞袍をそっと楓の両肩に被せた。

「自らの剣を投げ出すのがあの方やと思うんなら、それはあの方への侮辱や。違うか?」

まるで、幼子に教え諭すかのように和也が優しくそう云うものだから、堪えようとする涙がぼろぼろと溢れてまた着物を濡らす。

「…違わない」

楓が首を左右に力なく揺らすと、さらさらと髪が濡れた頬を撫でる。
自分でも随分と酷い顔をしているのがよく分かった。

「結局、私はあの方を守りきれなかった、そういうことなんだな」

そういうと、悔しさからまた涙が零れる。

「わいかてそうや。そやけど、それならまた強くなれば良い、それだけやないか?始めから諦めるなんて、そんなん間違っとる」

相手は強いぞ――楓はそう云おうとして、やめた。
そんなことは、和也も十二分に分かっているはず。

「これが、最後だ」

「負けるのが、か?それはちと難しいかもしれへんで?」

和也は不敵に笑いながらそう云う。

「いや、泣くのが、だ」

楓はぐい、と袖で顔を擦ると、布団を払って一気に立つ。
縁に向かうと、障子を気持ちよく開け放つ。

「和也」

「なんや?」

「木刀二本持って、動きやすい格好に着替えて来い。稽古だ」

和也は紺染めの作務衣である。
顔色が見る見る蒼白になった。

「いや、冗談でっしゃろ?他の方にお任せしますわー…」

「三分以内。遅くなったら…そうだな、素振り千本、走り込み1時間…」

「す、すぐに取って来ます〜」

そう云い残して慌てて廊下を駆けて行く和也を、楓はクスクスと笑いながら見送った。

――ほら、泣いたカラスがもう笑った。

そんなあの方の声が聞こえた気がした。
――ええ。でも、もう泣きません。
そう心の中で答えた。
空を見上げる。
高い高い秋の空、燦々と輝く日を眩しそうに眺める。
――しかし、あの那智という男との再戦も楽しみではある。
落ち込んだ心は既に前向きになり、遠くない将来、あの男と五分に剣を交える自分を思い描く。
そう楓が描いた想像が現実になるのは――
もう少し、遠い未来のこととなる。




END








後書き:息抜きに書き始めたものが、いつの間にやら本業とすりかわる。
これ、嘘のようなほんとの話です(ぉ
まあ、流石に本業を上回るほどではなかったのですが、予想以上の分量になったのは事実です。
今回のテーマは「硬めの文章でバトルってみようぜ!」ということで。
今書いている歴史物の影響も多分に見られます。
「ここはこうした方がよくね?」だとか、その他諸々の意見がございましたらぜひぜひ感想BBSまでw
期待してまってます(ぉ