ふと、気が付けば矢が私の胸に突き刺さっていた。
 身体は指一本も動かす事は出来ず、血はとめどなく溢れてくる。
 それで私は悟った。
 ――ああ、私はここで死ぬのだ、と。
 既に体の感覚も麻痺しているというのに痛みだけは全身を駆け巡り、その痛みで私は気が狂いそうになる。
 血が出すぎたのか呼吸も荒くなってきた。
 痛い。
 いたい。
 イタイ。
 私という存在が壊れていくのを感じる。
 しかし、そんな時にふとこんな事を思った。
 ――何故、私が壊れなければいけないのか。
 私はこの中つ国を治めるべく最高神に遣わされた神であり、その命を執行するに相応しい器と自負している。
 ならばこれはおかしいではないか。
 私はこの国を平定するまで死んではならないのだ。
 だが、この状況は一体なんだ?
 私が死なねばならない道理などあるはずがない。
 なのに……なのに……。
 おのれ……口惜しや……私は……ワタ……シ……は……。

 こうして、無念と憎悪を抱いたまま、天之若日子命(あめのわかひこのみこと)は息を引き取った。



Sin Another Story
『弓』
NONAME




 ここに塀がある。
 高さは約三メートル、飛び越える事など考える者もいないその塀は延々と続いている。
 唯一の出入り口である門も普段は硬く閉ざされている。
 これはもはや結界である。
 事実、中は外界と隔離され、俗世間の空気とは似ても似つかない清浄さが漂っている。
 そんな空気の中、全寮制の女子校、神城学園はこの地に根を下ろしている。
「…………」
 天野 綾芽(あまの あやめ)は先刻まで暮らしていた学び舎を一度だけ振り返る。
 珍しく開いた門も既に閉ざされ、今は綾芽さえも拒絶するかのようにそびえている。
 別段、この地に未練はないものの、ここから先に進めばもう戻れないことを思うと振り返らずにはいられなかった。
「……それこそ未練じゃない」
 苦笑しながら学園に背を向ける。
 手には二本の細長い布袋。
 衣服や日用品など他の荷物は学園に頼んで処分してもらった。
 持っていてもかさばるだけだし、仮に持ち帰っても着る機会などなさそうだったからだ。
 しかし、一番動きやすいという理由で着ている服が学園の制服というのも皮肉な話である。
 綾芽は飾り気のない黒一色の制服を纏い、それと同じくらい黒く長い髪を翻して学園を後にした。

 無駄に長い石段、周囲は鬱蒼とした森で日の光はあまり届かない。
 所々には外敵の侵入を防ぐ御幣が貼られている。
 綾芽はこの結界が苦手だった。
 自分に敵意が無いとはいえ結界の空気はまとわりつくようで気分がいいものではない。
 それでも、この石段を抜けて家の門をくぐるまでなので我慢して脚を進める。
 だが、そんな結界の空気も周りの木々も石段もひどく懐かしく感じられた。
「五年、か……」
 十二歳の時、綾芽は家を出て神城学園の中等部に入学した。
 それは、『隠れ蓑』が目的であった。
 はるか古の時代から天野の血脈は強力な破魔の力を持ち、退魔の業で名を馳せた。
 そうして、気が付けば黄泉の裔と敵対する日の宮と手を結んでいた。
 日の宮は天野の血脈に縁のある神器『天之麻迦古弓』を授け、天野はその力を日神子を守る為に使った。
 弓を手にした天野の血脈は非常に強大な力を手にし、襲い来る黄泉の裔を悉く灰にしてきた。その姿はまさに弓と形容するに相応しく、いつしか天野は『日神子の守』ではなく『日神子の弓』と呼ばれるようになった。
 故に黄泉の裔側も相応の対応をすることになる。夜襲に奇襲、大量の黄泉軍勢を率いての包囲作戦。
 そして五年前、黄泉の裔の総攻撃により天野の一族は綾芽を残して全員が帰らぬ人となった。
 幸いにも天之麻迦古弓は奪われずに済み、日の宮はまだ神力を上手く扱えない綾芽を神城学園に預け、弓は一人の守に預けられた。
 神城学園は実に立派に隠れ蓑の役目を果たした。
 物理的に閉ざされた空間に加え、学園全体を通る霊道が隠身結界を作り上げていた。これならば黄泉の裔が気付かなかったのも頷ける。
 綾芽はそこで五年間、神力を操る術を覚えた。
 そして今日、仮初めの居場所を離れて元居た場所に戻ってきた。
「ふぅ……」
 ようやく長い石段を登りきる、後ろを振り向くと木々に邪魔されながらもはるか下に地面が見える。
 正面には木造の門。物質的には神城学園ほど強固なものではないが、神木で造られたそれは内に高純度の神力が満ちている。
 その神力を媒体として作られた結界は隠身としては役に立たないものの、結界としては十分すぎるものであった。
 その門をくぐると目の前には少し広めの庭が広がっている。
 お世辞にも綺麗とは言えないが、それでも庭木なども最低限の手入れはされていて、綾芽は少し安心する。
 かすかに見覚えのある空間に一歩踏み出して――
 瞬間、思いきり横に跳んだ。
 多少無茶な反応をしたせいか片膝をついて滑り込むような形になる。
 ――先程までいた場所には人の形をした人外がいた。
 赤黒い肌、隆起した筋肉、額から突き出た角はまさに鬼のそれだった。
 その表情は般若の如き形相なのに能面の様に感じられるのは己の意思を持たない式鬼だからであろう。
 腕は石畳を貫いている。あそこにいれば今頃は頭を潰されていた事だろう。
 綾芽はさらに後ろに跳び、手に持った布袋の一つを放り、もう片方の布を解く。
 取り出されるは抜き身の剣。
「破ッ」
 掛け声と共に剣に神力を込め、正眼で式鬼と向かい合う。
 元々天野の人間は神力を矢として放つ事を得意としていた。しかし、弓矢とは相手の間合いから離れて射つものである。
 故に天野は神矢の他に少なくとも一つは相手の間合いの中で切り結ぶ戦い方を覚えるのが普通であった。
 綾芽の場合はそれが古剣の媒体に神力を加えて作り上げる神剣による剣術である。
 神力のみで創り上げられたそれには劣ってしまうが、これが一番自分に適した戦法だと綾芽は思っている。
 元より天野は『日神子の弓』である。
 あくまで神矢が基本であり、必殺の業で切り札である。よってそれ以外の力は必要最低限を覚えるだけで十分なのである。
「…………」
 式鬼は能面の形相のまま無言で綾芽に肉薄してくる。
 その速さは思いのほか素早く、そのまま流れるように式鬼の豪腕が振り下ろされる。
 風を切る音が響き――
 式鬼の振り下ろした腕が宙を舞った。
 式鬼の目の前にはいつの間にか剣を振りぬいた綾芽の姿。
 更に剣閃。
 神力を纏った剣は淡い蒼色の光を放ち、剣閃の後を光の尾が引いている。
 蒼光の線は式鬼の首、残っているもう片方の腕、両足、そして胴体に真っ直ぐ引かれた。
 剣舞の様な斬戟の後、一瞬の間をおいて式鬼はバラバラに切り刻まれ、一片の紙切れとなり、風に吹かれて空に舞っていった。
「へぇ、思ったよりいい動きするもんだ」
 不意に後ろから声がした。
 振り向くと同時に声の主である男が突進してくる。
 手には綾芽と同じ様に剣を持っている。
「……ッ」
 ほぼ同時に剣が振るわれる。
 響く剣戟の音。
「惜しかったな」
 男が笑って言うと同時に綾芽の剣が真ん中から折れ、衝撃で綾芽は後ろに吹っ飛ぶ。
 綾芽は体勢を立て直せずにそのまま尻餅をついてしまう。
「いったぁ……」
「そんななまくら使ってるからだよ。綾芽の神力自体は良いんだから、もっと媒体に良い物を使えばそんな事にはならない」
 先程とは打って変わって穏やかな口調で男が言う。
 逆に綾芽は憎らしげに男を見上げている。が、見ている側としてはあまり憎らしげに見えないので苦笑するしかない様な状態である。
「とりあえず……ほら」
 男が手を出す。
 しぶしぶ綾芽はその手を取って呟く。
「一応ありがと……琳(りん)さん」
「あ、覚えててくれたのか」
 琳と呼ばれた男は嬉しそうに笑う。
 彼は綾芽の遠縁に当たり、昔から天野の家に居候していたことを今になって思い出す。
「今思い出しました……まだ私がここにいた頃にもこうやっていっつも隙あらば『修行だ〜』とか言って襲ってきましたよね」
「襲ってきたとは心外だな、より実戦的な修行と言ってほしいね」
「どっちでも一緒ですよ……」
 なかば呆れ気味に呟きながら立ち上がる。
 すると不意に――
「しかし……青のチェックとはなかなか……」
「はい?」
 何の事か理解できずしばらく停止してしまう。
 そして自分がさっきまで足を思い切り開いていた事に気付く。
「……っ!」
 次の瞬間、綾芽の左アッパーが的確に顎を貫いた。

 草薙 琳は強打された顎を片手で抑えながら、もう片方の手に剣を持っている。
「これなんてどうだ? 十握剣の一つ、布都之御霊のレプリカだぞ」
「さっきからレプリカばっかですね……」
 皮肉交じりに綾芽が返事する。
 今は先程折られた綾芽の剣の代わりを琳の剣の中から選んでいる最中であった。
 しかし、先程から有名な剣の名前は出てくるものの、レプリカばかりで綾芽はいい加減に辟易していた。
 もちろん、レプリカとはいえ相応の力のある業物である。
 オリジナルには遠く及ばないにしても扱う者によっては十分強力な武器になるのである。
 だが、どうも綾芽は好きになれなかった。
 明確な理由こそ無いが苦手なものは苦手なのだ。
「しゃあねぇな……」
 琳はぼやきながら立て掛けてある無数の剣の中から一振りの剣を選ぶ。
 だが、それは剣と言うには刀身が短すぎた。
「十握剣の一つ、大量(おおはかり)だ。こいつはレプリカじゃない正真正銘の本物だ」
「十握剣って……どう見ても十握じゃないんですけど……」
 十握剣とは固有名詞ではない。
 親指を除く四本の指の長さを一握りとして握り十個分の長さをもつ剣の総称である。
 要は十握りの長さをもつ剣ならば全て十握剣なのである。
 だが、差し出された剣はその半分の長さほどしかない。これでは到底、十握剣とは呼べなかった。
「当たり前だ。レプリカじゃないのはこれを含めて二本だけなんだ。丸々一本なんて渡せるわけないだろ」
「と言う事は……」
「ああ、大量なのは柄だけだ。刀身は俺用に取ってある」
 その言い方から琳もしぶしぶ譲っているといった感じだ。
 そもそも彼はここにある数十本もの剣を集めていたのだ。その中から最高の一振りを譲ろうとしているのだから仕方のない事なのかもしれない。
「柄だけっつってもレプリカなんかとは比べ物にはならないはずだ。それにお前の場合、多少小回りが利いた方が上手く立ち回れるはずだ」
「それは……そうですけど」
 今まで差し出されても受け取ろうとはしなかった綾芽だが、流石にこれを突っ返すほど頑固ではなかった。
「それじゃあ、ありがたく頂戴します。……それにしても」
「ん?」
 今まで出した剣を元の位置に戻し始めていた琳が振り向く。
「普通、神代の神器を分解する人なんていませんよ」
「……うるせぃ」
 その後は琳はただ黙々と剣の整理を続ける。
 綾芽は自分の手に置かれている大量が元に戻せるのか不安に思いながら琳の後姿を眺めていた。
「そういやさ……」
 不意に琳が口を開く。
 見ればもう剣はほぼ片付けられていた。
「お前、神剣の方はなかなか上達してるけどさ、神矢の方はどうなんだ?」
「それなりだと思いますよ。見せましょうか?」
 そう言って右手を出して神力を込める。
 右手に集まった神力は徐々に形を成し、やがて一本の蒼光の矢になる。
 琳にもそれが一目で十分な力を持つものだと理解できた。
「ははっ、愚問だったな! これなら十分黄泉の裔相手でも通用する」
 そう言って綾芽の頭を撫でる。
 というより、むしろ掻き回すという表現の方が適切かもしれない。
 綾芽の髪はぐちゃぐちゃに乱れてしまっている。
「〜〜〜〜」
 このまま手に具現した矢を投げつけてやろうか、と綾芽が本気で考えていると琳の視線が壁に向かっていることに気付いた。
 同じ様に視線の先に眼を向けてみるとそこには綾芽の荷物であるもう一つの布袋があった。
 その長さは先程折られた剣よりも長く、布越しの形状からも見る人が見ればそれが弓とわかるものだった。
「あれはただの弓ですよ。学園では弓道部でしたから」
 聞かれる前に綾芽が答える。
「じゃあ、別にあれがなくても神矢は問題ないんだな?」
「そうでもないですよ、イメージの問題と言うんでしょうか……どんなものだろうと弓を持っていた方が狙いが定まりますし、神矢の具現化も早くなります」
 琳は何か考えているのか手を顔に添えて真剣な眼でじっと布袋に包まれた弓を見ている。
 しかし、それも束の間。
 すぐに視線を戻していつもの飄々とした顔に戻る。
「そっか、まぁ、いいや。俺はこれから晩飯の用意してくるから、お前は自分の部屋に行ってろよ」
「あ、はい……」
 さっきの琳の様子をいぶかしみながらも自室に向かう。
 綾芽が完全に視界に消えた後、琳はジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥えて火を付ける。
 一度、大きく紫煙を吐き出した後、今度はズボンのポケットから携帯電話を取り出してボタンをプッシュする。
 電波の状態を示す棒は三本。
 何故こんな所でも電波が届くのかは綾芽よりも長く住んでいる琳にもわからなかった。
 数回のコールの後、女性の声が聞こえた。
『もしもし?』
「あ、俺っす。琳です」
『ああ、琳さんですか。綾芽さんはもうそちらに着きましたか?』
「はい。それで……綾芽についての事なんですけど、今大丈夫ですか?」
『構いませんよ、それで、彼女はどうです?』
「ええ、神剣も神矢も見せてもらいましたが問題ありません。あいつの持ってる神力も才能も十分生かされてます。あれはちゃんと努力した結果ですね。実戦経験はないですけど遠距離戦に持ち込めばそちらの神刀使いにも引けはとらないでしょう」
『既に『日神子の守』としての実力は持っていますか。流石、天野の血脈と言うべきなんでしょうか』
「ですね、けど弓の照準や具現化の時にはまだ物に頼ってるようです。そんな状態で『弓』を渡すべきかどうか判断しかねますね」
『そうですか……その点に関しては貴方に任せますので。それで『弓』はいつ頃渡すつもりで?』
「できれば綾芽が完全に神矢を使えるようになるまで……と言いたいですけどそうもいきませんので今週中には……最近、ここらも大分探られてるので」
『その事についてですが、どうやら強力な力を持った黄泉の裔がそちらに向かっているようなんです。気をつけて下さい』
「わかりました。それでは……」
『ああ、それと……』
「何です?」
『煙草、あまり吸い過ぎないようにして下さいね』
「……はい、善処します」
 琳はボタンを押して電話を切る。
 結局、最初の一吸いしかしてなかった煙草は携帯灰皿に捻じ込んだ。
「……さ〜て、飯でも作るか」
 努めて明るい口調で琳は台所に向かって行った。

 夕食中、目の前に置かれたサラダをつつきながら綾芽が尋ねた。
「そういえば、どうして今頃になって帰って来いなんて言い出したんですか?」
 向かい側に座っている琳はその台詞を聞いた途端、白い目を向けた。
「神城のばーさんから何も聞いてないのかよ……」
 黙って頷く綾芽。
 琳の言う神城のばーさんとは神城学園の理事長、神城 友恵(しんじょう ともえ)のことである。
 彼女もまた日の宮側の人間であり、今でこそ第一線は退いているもののかつては神剣の使い手として活躍していた女傑である。
 今の綾芽の剣術も彼女の指南があってこそだろう。
 琳は溜息をついてめんどくさそうに説明を始める。
「要は人手不足に伴う人員補充ってやつだ。最近、ここら一帯の担当の奴等が次々殺されて……というか、喰われていってる。今、この辺りで生き残ってるのは俺とばーさん、あとはお前くらいでな。ばーさんなんて当然、戦力外だからなお前が呼び出されたって訳だ」
 そう言いながら煙草を一本取り出す。
 既に琳の食事は綺麗に片付いている。
「ま、それにここは元々お前の家だしな。いい加減、居候してた俺が管理するのもめんどくさい」
「それが本音ですか……」
 綾芽は呆れ顔でフォークに刺したままだったサラダを口に放り込む。
 琳は否定はしないけどな、と煙草を吸いながら笑っている。
「この辺りにも探りが来ている。恐らく、数日もすれば仲間を喰った奴がここに来るだろう」
 急に真剣な表情に戻った琳を見て綾芽は思わず息を呑んだ。
「喰われた奴らだって弱くはない。なのに一人の黄泉の裔に根こそぎ喰われてる。向こうには大分力を蓄えられちまった。おまけにこっちは完全に後手に回ってる。気合入れてかねーと俺らも喰われちまうぞ」
 黄泉の裔は相手を喰らう事で喰らった相手の神力、技、そして姿さえも自分の物にできるのである。
 当然、喰らった数が多ければそれだけ個体の強さも強くなる。
 黄泉の裔とはまさに人ならざるもの、人がヒトをやめた末に行き着く果てである。
「そんな世界にいるんですね……私達」
 わかっていた事であったが、改めて現実を突きつけられると呟かずにはいられなかった。
 綾芽の両親は幸いと言うべきか殺されただけで喰われることはなかった。
 のちに彼らは丁重に埋葬され、今はこの家の裏山で眠っている。
 あの時はただ両親の死を悲しむだけだったが、もし、両親が喰われていたならば巡りめぐって親の姿をした仇と闘わねばならなかったのかもしれないのだ。
 そんな考えが綾芽を戦慄させる。
 なんて自分は甘い世界で今まで過ごしていたのか――
 そう思わずにはいられなかった。
「ま、そう深く考えるな。要は振り払えばいいんだ。自分に降りかかる火の粉も自分に関わるものに降りかかる火の粉もな」
 自分に言い聞かせるような覚悟めいた言葉。
 綾芽はただ頷くしかなかった。
「っと、食事中にしては辛気臭い話になっちまったな……デザートでも食うか?」
 そう言って椅子から立ち上がり冷蔵庫を開く。
 手にはプリン、しかも市販の物ではなく手作りである。
「……意外にマメですね」
「ここは娯楽が少ないんでな、料理とかゲームとか色々暇つぶしにやってしまうんだよ。なんならお前にも貸してやろうか?」
「遠慮しておきます……」
 琳は暇つぶしにいいんだけどなぁ、と心底残念そうに呟いている。
「まぁ、いいや。俺は後片付けしとくからさ、先に風呂入っちまえよ」
「あ、はい。すいません……それじゃ」
 促されてそのまま風呂場に向かおうとして……
「……あ、そうだ。ずっと気になってたんだけど、お前、その丁寧語やめないか?」
「あの学園も一応、お嬢様校ですからね。五年もいたら地になっちゃってるんですよ、この喋り方」
「でもなぁ……なんか堅苦しくて変な感じがする」
「そうですか? じゃあずっとこの喋り方でいきますね」
 そう言って綾芽は意地悪な微笑みを浮かべて台所を出て行く。
 残った琳もまったく良い性格してるよ、と呟きながら洗い物を片付け始める。
 時刻は既に八時になろうとしている。
 外は月が出ているというのに漆黒に包まれている。
 琳はふと窓から見た空の闇が――嘲笑っているような感覚に襲われた。

「何しに来たのかね? 君は『弓』には興味はないのだろう?」
 黒いコートに身を包んだ男が銀髪の少年に話しかける。
「もとよりそのつもりです。近くまで来たので寄ってみただけですよ」
「『裏切り者』の件かね?」
 少年は黙って睨む。
「私には関係ない、ということかね。まぁ、私としてもそんな事はどうでもいい事だ」
「貴方が執心しているのは『弓』だけですか」
「そうでもないさ」
 口を歪めて男が笑う。
 それは邪悪で底の知れない笑み。
「まぁ、いいでしょう。召集がかかった場合は速やかに来るようにして下さい。それでは……」
 そして少年は闇の中に消えていく。
「さて、久方ぶりの上物。それも二人……結界はいささか邪魔だが……明日は馳走だ……」
 くつくつと男は笑う。
 深い、深い森の奥の闇の中で。

 綾芽はまだ辺りも薄暗いうちに目が覚めた。
 時計を見れば午前五時半。
 学園での起床時間の一時間も早く起きてしまった。
 早く目覚めた理由は単純な事で風呂から上がるとやることが何もなかったからだ。
「本くらい借りればよかったかな……」
 呟いて布団から起き上がり、着替え始める。
 二度寝しようかとも思ったが眠気は既に吹っ飛んでいる。
 黒一色の服に袖を通し終わった後、障子を開く。目の前には薄暗い庭。
「散歩でも……しようかな」
 呟くと既に足は縁側に向かっていた。
 置いてあった草履を履き、砂利の上を歩く。
 微妙に切り揃っていない庭木の松も、少し濁った池も、苔むした燈籠も五年前とは大分様子が変わっていたが、懐かしく感じずにはいられなかった。
 唯一変わっていないとすれば、空気。
 もともと周辺は交通量も少なく、家の周りは木々に囲まれているので空気は綺麗だが、それに加えて周りを囲んでいる結界もあって清浄な空気に包まれている。
 そんな空気の中、砂利を踏みしめながら家の裏手に回る。
 裏手と言ってもそこにはまだ庭が広がっている。
 そして庭木の他に裏口の門が一つ。
 表門となんら変わりない見た目の裏門はその先の裏山に続いている。
「あ……」
 裏門越しに見える山を見て、思わず両親の事を思い出した。
 あの山には両親だけでなく天野の人間みんなが眠っている。
「折角だから行けよ、墓参り」
 突然、後ろから声を掛けられる。
 振り向けば縁側に立つ琳の姿。
 どうやら琳の部屋はすぐそこだったようだ。
「早いんですね、朝」
「まぁな、どういう想像してたのかは聞かないでおいてやるよ」
 そう言って琳も同じ様に裏山を眺める。
「五年間墓参りにも来れなかっただろ、線香くらい供えて来い」
「……そうですね」
「よし、そんじゃあちょっと早いけど飯でも作るか、っていうかお前も朝飯の準備くらい手伝え」
「あ、はい」
「そーいや、お前って自炊できるのか?」
「…………」
 うつむいて黙ってしまう綾芽。
 その態度で一目瞭然だった。
「ま、まぁ、とりあえず台所に行くか……」
「はい……」
 二人は裏門に背を向けて朝はパン派かご飯派かなどと他愛ない事を話しながら台所に向かっていった。

 そして、綾芽は裏山の緩やかな坂道を登っている。
 結局、朝食を食べた後、お供え用の花と線香がないのに気付き、残り少なくなってきた食材のついでという事で街に買い出しに下りることとなった。
 問題は買い物にかかった時間で、自動車がない――というよりむしろ二人とも免許を持ってないのだが――ので移動に時間がかかってしまい、店が開く時間の一時間も早く家を出たというのに家に帰ってきた時には正午を過ぎてしまっていた。
 昼食を食べて家を出たのが午後一時半、午前中に済ますはずだった予定は大幅に狂ってしまっていた。
 かといって予定が詰まっているわけでもないのでのんびりとした足取りで坂道を登っている。
 目の前には分かれ道。
 ここを左に行けば天野の霊園まで目と鼻の先だった。
 真夏程ではないが日差しが照りつける。上から下まで黒一色の綾芽には思いのほか暑い。
 頬を一滴の汗が伝う。
 けれども綾芽はゆっくりと歩を進める。
 それは一歩一歩をしっかりと踏みしめた歩み。
 五年ぶりに両親と向かい合う為の覚悟めいた歩み。
 そして遂に歩みを止める。
 目の前には二つの墓石。
 墓石にはしっかりと両親の名が刻まれていた。
「お久しぶりです……父さん、母さん」
 そう言って手を合わせる。
 しばらくそうしてから買ってきた花と線香を供える。
 見れば前に供えていた花も枯れきっておらず、周りの雑草も全て抜いてある。
 こんなことをするのは当然、琳だけである。
 綾芽は琳の心遣いに素直に感謝した。
「それじゃあ……また来ま」
 来ます、と言い終わらぬうちに異変は起こった。
 今までの清浄な空気とは打って変わって纏わりつく様な嫌な空気。
 見た感じこそ変わらないものの周りは瘴気に満ち始めていた。
 どこからとなく異臭が漂う。
 肉が腐り、臓腑を溶かし、蟲が集る死体のにおい。
 綾芽は初めてだったがこれが一体何かすぐに理解した。
「黄泉の異界……!」
 そう、それは黄泉の裔が作り上げる結界。
 異界化した空間は生者の世界であろうと彼らの領域に作り変えてしまう。
 生の中の死の空間。生と死を繋ぐ場所。
 まさに黄泉比良坂と呼ぶに相応しい世界である。
「戻らないと……!」
 踵を返すと――そこには人。否、人をやめてしまったモノが集まっていた。
 彼等は皆、視線が虚ろでそこに意思などないのは明白だ。
 彼等こそ黄泉軍勢。
 女神に力を与えられるも、その力に耐え切れず自我が崩壊して使い捨ての駒と成り果てた哀れな存在である。
 ざっと視界に映っている黄泉軍勢の数は二十。
 だが黄泉の異界の中では奴等は無尽蔵に現れる。
 一体一体の力はさほど脅威ではないが数で押し切られてしまうとこちらが不利になる。
 綾芽は腰に下げていた大量を抜き、神力を込めながら黄泉軍勢に突っ込む。
「破ァッ!」
 斬撃一閃。
 以前の淡い蒼光を放っていた神剣とは違い、大量は蒼光自体が剣と化していた。
 刀身も実際の五握り分ではなく、しっかりと十握り分の長さになっている。
 その蒼光の剣が黄泉軍勢を両断する。
 胴体から真っ二つにされた黄泉軍勢は灰塵となってその場に散る。
 しかし眼前には未だ多くの黄泉軍勢が集まってきている。
 異界は裏山はおろか天野の屋敷にまで及んでいる。
 これほどの規模の異界となると異界そのものを破壊することは容易ではない。
 故に異界を作り上げた黄泉の裔を倒してしまう方が手っ取り早い。
 そしてその黄泉の裔はおそらく屋敷の方にいる。
 屋敷の方向から漂うより強い臭気と瘴気がそれを物語っていた。
 しかし、そのためにはこの無尽蔵の黄泉軍勢の中を突破しなければならない。
 ならば一点突破以外に術はないだろう。
 綾芽は蒼い神剣を右手に、そして左手に神矢を作り上げながら疾走する。
 神矢を投げつけ突破口を開き、神剣で黄泉軍勢を斬り捨て道を広げる。
 初めは数えることもできた黄泉軍勢も今ではひしめき合うほどに集まってきている。
「くっ……」
 綾芽も思わず呻いてしまう。
 いくら数で押してくるのが定石の黄泉軍勢とはいえこれほどの異常な数になるとやはり厳しいものがある。
 先程から相当の数の黄泉軍勢を神矢を貫き、神剣で切り伏せているのにもかかわらずまだ分かれ道の辺りまでしか進んでいない。
 このままでは山を下り切った所で体力が果ててしまうと危惧していると不意におかしなことに気付いた。
 分かれ道の右側、そこには黄泉軍勢が一切いなかった。
 思わずそちらに向かって走り込む。
 そこで綾芽は気付いた。
 ――いないのではなく、来れないのだと。
 綾芽はこの道が続いている先を見やる。
 そこには小さな社。
 その時、綾芽の中で何かが弾けた。
 考えるより先に社に向かって走っていた。
「…………」
 目の前には札の貼られた社の扉。
 この先に何があるのか綾芽は知っている。
「……筑紫日向の橘小門之阿波岐原に身滌祓い給う時に――」
 別の誰かが言っているかのような無機質的な呪文が綾芽の口から漏れる。
 実際、綾芽はどこか遠くを眺めているような目で扉を眺めている。
「――八百万の神たち共に天の斑駒の耳振立て所聞食と畏み畏みも白す」
 呟き終えて扉に手を掛ける。
 扉は音もなくすんなりと開いた。
 扉の先には一本の弓が台の上に鎮座していた。
 材質のわからないそれは弦が張られておらず、所々欠けていて弓としての機能は果たすことはできないような状態であった。
 しかし、綾芽はそれを掴みあげる。
 そしてそれを持って黄泉軍勢の群がる分かれ道まで戻る。
「…………」
 綾芽は黙ったまま片手に持った大量を地面に突き刺し、もう片方の手に持った弓を構える。
 そして空いた手で虚空を掴み――放った。

 昼食後、自室でくつろいでいた琳は異界化と同時に障子を蹴破り庭に出ていた。
 手には大量の片割れ。
 辺りには黄泉軍勢の残骸である灰がそこかしこに積もっている。
 そして正面には黒いコ−トを着た男が立っている。
 琳は一目で理解した。
 この男が同胞を食い尽くした奴だ、と。
「ふむ、やはり出来損ないどもでは相手にならんか」
 足元に積もっている灰を蹴りながらその男が言う。
 だがそこに込められている感情は悦び。 
 餌を目の前にした猛獣のような表情である。
 琳も上質の餌くらいにしか見られていないのだろう。
「お前だな、仲間を喰らった化物は」
「その通りだ。一応名乗っておこうか。私は翠川だ」
「そりゃご丁寧にどうも」
 琳は皮肉っぽく肩をすくめる。
「さて、君はなかなか美味そうだが……出来損ないをけしかけただけでは君の力量は量れそうもないな。ならばこれでどうかね?」
 そう言って片手を上げる。
 と同時に異界の空間が歪み二体の黄泉軍勢が現れる。
「…………」
 琳は攻めに回らずじっと現れた黄泉軍勢を凝視している。
 翠川の口振りからしてただの黄泉軍勢とは思えない。
 見た目だけに惑わされて突っ込むほど琳も馬鹿ではなかった。
 しかし向こうは焦点の合わない目を琳に向けているだけで自分達から動く気配は一向にない。
 恐らくこのまま琳が動かなければ向こうも動かないであろう。
 ならば速攻で片付けるのみ。
 琳は意を決して地面を蹴った。
 約三メートルの間合いを一足で詰め、近い方の黄泉軍勢の脳天めがけて高速の斬撃が打ち込まれる――
 が、その斬撃は黄泉軍勢の頭を吹っ飛ばすことなく片手で受け止められていた。
「何……っ!?」
 神剣を掴まれ、そのまま琳ごと投げ飛ばされる。
 琳は空中で体勢を立て直し無傷で着地する。
 改めて相手を見据えるとある異変に気が付いた。
 琳を投げ飛ばした方の黄泉軍勢の腕がさっきより二回りほど巨大化し、さっきまでは普通の人と変わりなかった手が今では鋭い爪を生やしている。
「ああ、言い忘れていたがね」
 翠川がわざとらしい口調で琳に向かって言い放つ。
「見ての通り彼等はただの黄泉軍勢ではない。彼等は元々意思を持っていたれっきとした黄泉の裔だったのだが、いかんせん業が深かった。女神の力を更に求め、その願い通り力を与えてもらったのだがね、やはり強すぎる力は元々人間の器には耐えられないのだろうね……自我が崩壊してしまったよ。結局、力は遥かに勝っているが黄泉軍勢となんら変わらない状態になってしまったのが彼等――黄泉醜女(よもつしこめ)というわけだ」
 黄泉醜女――それは日本神話において伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉比良坂から逃げる時に伊弉冉尊(いざなみのみこと)が仕向けた鬼女であり、同じく差し向けられた黄泉軍勢を統率していたものの名である。
 確かに黄泉醜女は黄泉軍勢とでは比較にならない程の力の差がある。
 黄泉の裔の中でさえ琳の剣戟を真正面から受け止める事ができた者は稀である。
 つまり、目の前の敵は下手な黄泉の裔より強いという事だ。
「楽して勝てる相手じゃなさそうだな……」
 傍観を決め込んでいる翠川を一瞬睨み、神剣を構え直す。
 今度は黄泉醜女から攻めて来た。
 琳は二方向から向かってくる黄泉醜女とは違う方向へ飛ぶ。
 それに対応して無駄のない動きで追尾してくる黄泉醜女。
 一定の距離を取りながら琳はなおも動き回る。
 と、不意に琳は動きを止め、神剣を地面に突き刺す。
「――ジャク ウン バン コク!」
 呪文を唱え、片手を突き出す。
 すると、突き刺した神剣から光が走り、五芒星を描く。
 見ると地面には神剣で五芒星が刻まれている。
 そう、琳はこの五芒星を刻み、その中に黄泉醜女達を誘導する為に動き回っていたのだ。
 そして、五芒星の内側に入った黄泉醜女は一時停止した映像の様に琳に向かって走っている姿のまま硬直している。
「……確かに力は凄いが動きも思考も黄泉軍勢並に単調だったな、こうも簡単に結界に縛れるとは思わなかったぜ」
 不敵に笑って神剣を引き抜く。
 もちろん、神剣を引き抜いたからといって結界は解けない。
 それでも動こうと黄泉醜女はもがく。
 だが、動く事は適わず、生きたまま磔にされた昆虫のようにぎちぎちと体を震わせているだけだった。
「流石に身動き取れなきゃ俺の剣を受け止める事ができても意味無いよな」
 そう言って身動きの取れない黄泉醜女を容赦なく両断する。
 斬り落とされた体の上半分はそのまま地面に落ち、下半分は結界に縛られたまま立ち尽くしている。
 だが、両断されてもまだ活動できるのか微かに動いている。
 恐らくほっておいても問題ないはずのそれにさらに神剣を突き刺す。
 そこでようやく動きを止め、徐々に灰となって崩れてゆく。
「さて、そろそろ相手になってもらおうか?」
 灰の山から剣を抜き、今まで微動だにしなかった翠川に向かう。
「見事だ、よもやセーマンで敵の動きを縛れる程とは思わなかった……よかろう、そろそろ腹も減ってきた。食事の時間といこうか……」
 紅い瞳が琳を射抜く。
 だが、その眼は酷く黒い。光の届かぬ漆黒の朱。
 それだけで全身に不快な感覚が走る。
 琳は痺れる身体を奮い立たせて剣を向ける。
「――畏み畏みも白す」
 突然、翠川が静かに、しかし、はっきりと聞こえる声で呟く。
「……マジかよ」
 思わず顔が引き攣ってしまう。
 翠川の手には――禍々しい程に輝く黒い神矢があった。
「天野の人間も喰ったことがあるのか……? いや、仮に喰ったことがあったとしても血脈でもない奴が簡単に使いこなせる代物じゃないはずだ」
 思わず疑問をぶつけてしまう。
 翠川はというと予想していた反応なのか悠然とした表情で嘲笑っている。
「単純な話だ。私は元々天野の人間だからな」
「な……に?」
「翠川と言うのはこの身体の持ち主だった名前でな。私の本名は天野 楼庵(あまの ろうあん)と言う。百年程前の天野の人間だ」
 天野 楼庵。
 琳はその名に覚えがあった。
 いつだったか、屋敷の管理を任された当初、倉庫の整理をしていた時に見つけた家系図に記されていた。
「その頃から既に黄泉の裔は天野の人間を疎ましく思っていたようでな、何度も襲ってきたものだ」
 どこか懐かしそうな表情で翠川――楼庵は話し続ける。
「運が悪かったのだろうな、私は単独行動中に一人の黄泉の裔……つまり翠川に襲われてな。抵抗空しく喰われてしまったのだよ」
「……だからどーした、喰われたら姿、神力、技が奪われるのは黄泉の裔の中じゃ普通な事だろう。俺は何故、神矢を完璧に操れるのかを聞いている」
「そう急くな。確かに神矢は天野の血脈の極意だ、それを扱うには天之若日子命の力を受け継いでいる魂が不可欠だ。無論、黄泉の裔は相手を喰らったとしても魂までは奪えない。確かに私は喰われた、しかし、魂はこの黄泉の裔のものではなく私のものだ……わかるかね?」
 そこまで聞いて、琳は一つの仮説が思い浮かんだ。
「私も喰ったのだよ。その黄泉の裔の御魂を。世の中には神喰いという業があるがそれと似たようなものだ」
 楼庵は歯を剥き出して笑う。
「肉体という器だけが私の物ではなく、姿、神力、技、魂はかつて天野の人間だった時の私の物なのだよ。先程は運が悪かったと言ったが、そんな事は無い。実に幸福な事だよ! 天野の全てを手にしたまま天野などという柵から抜け出せたのだからな!」
 堰を切ったように笑い続ける。
 その顔は狂ってしまったと言えるほどに歪みきっていた。
「……さて、昔話はここまでだ。それでは食事を始めよう」
 言うと同時に手にした漆黒の神矢が放たれた。

 綾芽は灰で溢れかえった坂道を駆け下りている。
 手には神剣と古ぼけた弓を持っていた。
 さっきまでひしめき合っていた黄泉軍勢は今は綺麗に消え去っている。
「…………」
 走りながら手にした天之麻迦古弓に視線を落とす。
 うっすらとだが覚えている。
 社へ向かったこと。
 知らない呪文を唱え、社に施された封印を解いた事。
 天之麻迦古弓を手に取り、その力であの大量の黄泉軍勢を一撃で灰にした事。
 何故そのような事ができたのかはわからない。
 しかし、そんな事はどうでもよかった。
 いずれ手にするはずだった天之麻迦古弓だ、今手に入ったところで問題は無い。
 さっきは意識が空ろだったが、今ははっきりとしている。
 ならばやるべき事は先程の異変を知る事ではなく、琳と合流してこの異界の主を倒す事である。
 既に視界には裏門が見えている。
 綾芽はさらに速度を上げて裏門をくぐり抜ける。
「……え」
 いきなり目の前に腕が飛んできた。
 腕はそのまま綾芽の顔の横を過ぎて行った。
 裏門に叩きつけられ、地面に落ちる。
 血塗れのそれはもはや腕と呼ぶのも相応しくないほどにぐちゃぐちゃに潰れていた。
 そして、その腕についているもはや布切れとなった服には見覚えがあった。
 綾芽は腕の飛んできた方に視線を向ける。
「琳……さん……」
 そこにはボロボロになった琳が立っている。
 左腕は根元からなくなっている、やはり飛んできた腕は琳の腕であった。
 距離があるのでよくは見えなかったが他にも体中が血塗れになってる。
 そして、視界に黒い人影が見えた。
 恐らくあの人物がこの異界を作った黄泉の裔だろう。
 彼も琳に劣らないほどに体が損傷している。
 腹部にはいくつも風穴が空いていて頭部も右側が少し削がれている。
「とんだ化け物だ。まさか喰らう隙も無いとはな……」
「頭の中身……見えてる奴に……化け物呼ばわりされたくねーよ……」
 満身創痍にも関わらず琳が駆ける。
 黒いコートの男はそんな琳に向かってここからはよく見えないが何かを投げつけている。
「オン アミリテイ ウンハッタ――ウーン!」
 印も組まずに真言を唱える。
 放たれた三本の神矢の内、二本は消し飛ばすが残り一本が琳の腹を貫く。
 しかし、琳は動きを止めることなく突っ込む。
 目の前まで肉薄し、神剣を思い切り横に薙ぐ。
 が、男は身体の半分まで斬られた所で後ろに退く。
「くそ……ここは退くか……百年分の蓄えを持ってしても遭い打ち寸前とはな……馳走かと思ったがとんだ毒だったようだ」
 そう言って男は闇に包まれて消えていった。
 そしてそれと同時に周囲の異界化が解け、元の空間に戻る。
「遭い打ち……? 冗談……」
 苦笑いを浮かべてその場に崩れ落ちる。
 綾芽も琳の元に駆け寄る。
「琳さん……っ!」
 すぐ傍で見て綾芽は悟ってしまった。
 琳の身体はもはや死に体だ。
 むしろ、今生きている事すら異常である。
 左腕は言うに及ばず、右手も指が潰れ切っている。
 右の眼窩に眼球は無く、血で溢れている。
 腹部には穴が開いてしまっていて、それ以外にも深い裂傷がいくつも刻まれている。
 もはや見ていることすらいたたまれなくなってしまう姿であった。
「……それは天之麻迦古弓か。まさか自分から取りに行けたとはな」
 手間が省けた、と笑いながら口から血を噴き出す。
「綾芽……奴は天野の人間だ」
「え……」
 それから琳は途切れる事無く事の顛末を説明する。
「ヤツはきっとお前を喰って、その弓を手に入れる為にまた来るはずだ。それまでにそいつを使いこなせ……テメェの一族のことはテメェで始末つけろよ」
 綾芽は何も言えなかった。
 悲しいのに涙も出ない、ただ黙って頷くだけしかできない。
「んじゃ、後は任せた……」
 ちょっと出かけてくるような口ぶりで琳は息を引き取った。

「…………」
 綾芽は墓前で手を合わせていた。
 そこには両親と琳の墓。
 不意に背後で人の気配がした。
「もう一年ですか」
 とても穏やかな女性の声。
 振り向くと着物姿の女性が花を持って佇んでいた。
「ええ、長かったような短かったような……そんな感じですね」
 そう呟いて綾芽は立ち上がる。
 そしてスカートのポケットから煙草を取り出す。
 それは琳と同じ銘柄の煙草。
 一本に火を付け琳の墓前にある線香立てに刺す。さらにもう一本取り出してそれは自分が咥える。
「未成年の喫煙はいけませんよ」
 女性が言う。
 が、そこに咎めるような感じはしなかった。
「今日だけですから……」
 紫煙を吐きながら答える。
 それから綾芽が吸い終わるまで無言が続いた。
 聞こえるのは微かな風の音だけ。
「やっぱり、慣れない煙草なんて吸うものじゃないですね」
 綾芽は少し咳き込んで言う。
 苦笑しながらほとんどフィルタだけになった煙草を琳が使っていた携帯灰皿に押し付ける。
 そして二人は墓に背を向けて裏山を後にした。
「これからどうするつもりです?」
「そうですね……やる事が残ってますし……」
「翠川……いえ、天野 楼庵ですか」
「はい、琳さんの言う通り天野の不始末は天野の人間がつけないといけませんから」
 一度手の平に視線を落とし、すぐに前を見据える。
 覚悟を秘めて裏門をくぐり抜けた。
 確証はなかったが裏門の先には楼庵がいる気がしていた。
 そして実際に楼庵はそこにいた。
 一年前と同じ黒いコートを纏った男。
 違うとすれば顔の右側の肌の色が他と違っているくらいだろうか。
 相変わらずその紅瞳は飢えた獣の様で、底のない暗黒で、見ているだけで不快になる。
「久方振りだな」
「ええ、とは言え話をするのは今日が初めてですけど」
 お互い無表情で言葉を交わす。
「あの男のおかげで身体を治すのに半年、蓄えていた力を取り戻すのに更に半年も足止めをくらった。早急に貴様を喰らい、次の獲物に行かせてもらう」
 そう言って手を翳す。
 拡がるは瘴気の纏う空間。
 黄泉の異界は元ある空間に干渉し、侵食していく。
 異界は屋敷の大半を侵食し、裏山まで異界化しようとする。
 ――が、それは叶わなかった。
 突然、異界化が止まる。それどころか先程まで侵食していた空間もまるで潮が退くかのように消滅し始めている。
「なん……だと」
 楼庵は驚きを隠せずにいた。
 一体、何が起きたのか把握できない。
 自分の正面で佇んでいる綾芽もその後ろにいる女も微動だにしていない。
 先程からずっと視界にいれていたのだ、それは紛れも無い事実である。
 だが、そこにおかしい物を見た。
 先程まで綾芽が腰に帯びていた剣がいつの間にか地面に刺さっている。
 勿論、綾芽が剣を抜いた姿など見ていないし、なによりその剣が何時刺さったのかも解らない。
「貴様……一体何をした……!」
 思わず語気が荒くなる。
 対する綾芽は悠然とした態度で答えた。
「この神剣の名は大量。それとも、神度剣(かむどのつるぎ)と呼んだ方が解りやすいですか? かつて、天之若日子命が死に、阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)が喪を弔いに来た時、天之若日子命と瓜二つの阿遅志貴高日子根神が彼と間違えられ、その怒りで喪屋を斬り裂いた時に用いられた剣です。
喪屋とはいわば生者の世界にある死者の空間。黄泉の裔が作り上げる紛い物の黄泉比良坂を斬り裂く事ができてもおかしくないでしょう?」
 微笑むほどの余裕の表情で綾芽は丁寧に説明する。
 その姿はむしろ悪寒が走るものがあった。
「さて、説明はここまでです……」
 そう言って表情が一変する。
 先程の穏やかな表情とはうって変わって貫かれるような鋭い眼光。
「私は言霊使いではないのでこの言葉に意味など無いのですが……言わせて貰います」
 そこで一拍置いて、言霊にならない言葉を紡ぐ。
「天野 楼庵――貴方を殺す」
 確かにそれは言霊にはならない。
 ただの宣言。
 だが、その言葉を聞いた楼庵は突き刺すような激しい恐怖と悪寒に襲われた。
 いくら力を蓄えても足りない。
 否、力の差など関係ない。
 自身があの女に恐怖しているだけなのだ。
「――ぅぅおあああぁぁぁぁぁぁ!!」
 後方に飛び退り、それと同時に自分が放てる限界まで黒い神矢を具現、投擲する。
 焦りと恐怖による行動だが、それは全て正確で十分に一撃必殺の業であった。
 頭部、頚動脈、両手足の腱、心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓。
 十数本に至る黒死の矢。
 両者の間合いなどものともせず瞬時に、そして確実に狙った部位を捉えるだろう。
 だが、綾芽は慌てることなく右手を前に翳し――
「――天の斑駒の耳振立て所聞食と畏み畏みも白す」
 放った。
 心臓を狙った一本が綾芽の目の前で弾ける。
 衝撃と神力があたりに飛び散る。
 そして次々と黒い神矢は霧散していく。
 それどころか黒い矢を貫いて蒼光が同じ軌道を辿って楼庵に向かっていく。
「……ッ!」
 楼庵は避けようとするが間に合わない。
 ならば、と防御しようとするが遅い。
 咄嗟に両手で頭と心臓を守る。
 だが、そんなもので防げるわけもなく、返しの蒼矢は寸分の狂いもなく楼庵を貫く。
 ゆっくりと後ろに堕ちる。
 楼庵が倒れる寸前に見たものは――蒼い弓を持つ綾芽と周囲に浮かぶ無数の光だった。
 蒼い弓、それが天之麻迦古弓だと何故か理解した。
 綾芽は天之麻迦古弓を取り込み、己が神力の中に溶け込ませたのだ。
「ァ……カッ……」
 喉も肺も貫かれ、呼吸ができない。
 全身の感覚ももはやなくなっている。
 朦朧とした意識と視界の中、綾芽が傍らに寄り、見下ろしているのが見えた。
「貴方は確かに強かった。……だけどそれは貴方自身の力じゃない。広範囲に及ぶ異界化もその膨大な神力も貴方が喰らい、奪った力です。貴方自身が本来持っていた力は確かに強力ですが、最強の業ではなかった。異界の中では最強だったかもしれませんが、破られてしまえばこうなってしまう」
 冷たく、淡々と言い放つ。
 死に体の男は既に心臓が停止しながらもその言葉を聞いている。
 視界は血にまみれて真っ赤で、そして黒く塗り潰されていく。
「さようなら、天野 楼庵――貴方は百年前に死ぬべきだった」
 最後の一射が身体を貫く。
 そして流れ出た血もボロボロの身体も灰塵となり、風に乗って消え失せた。

 女性はただ静かにその一部始終を眺めていた。
 口を出すわけでもなく、手を貸すわけでもなく、ただ眺めるだけ。
 事が済むまでまるでそこには存在しなかったかのように。
 そしてようやく女性は口を開いた。
「用事、済んでしまいましたね」
「ええ……そうですね」
 もしかすると彼女も今日決着がつくことを予期していたのかもしれない。
「それで、これからどうしますか? もし、よければ日の宮に部屋を用意しますが」
 綾芽は首を横に振る。
「あれは……楼庵は天野の本当の姿かもしれません。天之若日子命も最後は裏切り、返しの矢で死んでいます。だから私もいつか黄泉の裔に寝返ってしまうかもしれない、今は……そんな事は無いと確信を持って言えません」
 綾芽は弓を持つ手を自嘲するように見つめている。
 弓はその形を崩し、蒼い霧の様な姿に変え、そのまま綾芽の手の平に吸い込まれる。
「だから迷惑は掛けられません。私は一人で行きます」
 そう言って一歩を踏み出す。
「そうですか……それでは、縁があればまた会いましょう」
「ええ、その時は敵か味方かわかりませんが」
「敵になっていない事を祈りますよ」
 そう微笑んで女性は綾芽を見送った。
 綾芽は振り向く事も無く、門をくぐり抜ける。
 黒一色の服を纏った黒髪の少女はそのまま、石段を下りて行った。
 残ったのは着物の女性とかつての帰るべき場所。
 清浄な空気のその場所で――一瞬、煙草の匂いが漂ってきたような気がした。




 あとがきというか言い訳

 どこかから身の程を知れっ! と言う声が聞こえてきます。
 と言う訳で、はじめまして、こんにちわ、おはようございます、こんばんわ。
 勝手にSinの世界観を使って話を作ってしまいました。
 一応、明さんからは承諾を貰ってます。
 だが、明さんは関係ない、悪いのはこの俺だ、狙うなら俺だけを狙うがいい。
 そうだ、俺の心臓はここだ、よく狙えよ、こんにゃろぉぉぉぉぉ!
 ……すいません、頭イっちゃいかけてます。
 ちなみにこの話を考え出したのは今年の3月終わり。
 その頃からなんだかんだと妄想膨らませて、KS2の際に明さんにそれっぽい発言しちゃったが運の尽き。
 言ったからには、とちびちび書いて気づけばもう既に結構な時間が経過してました(苦笑
 おまけに絵とか色々やってて全てにおいて半端者です。
 もー、何やってるんだろ自分って感じが満ち満ちてます。
 個人的には設定というか神話的な部分を魅せるつもりで書きました。
 ええ、どうせつもりです、つもりだからつもりなんです(意味不明
 とにかく明さん、Sinの世界を勝手に妄想しまくらせてもらいました。
 なんか那智っぽいキャラや真柱さんっぽいキャラや実は使われなかったもう一本の剣は八握剣でその後、真柱さんっぽいキャラが持っていって、本編に繋がるーとかそんな裏妄想もありますが気にしないでください。
 お仕置きなら体育館裏で……(何
 それでは、NONAMEでした。さぁ、ヘタレ絵描きに戻るかー(ぉ